※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。
小野寺太志さんの母親について、どんな人なのか気になっている方は多いはずです。
実は母親・いく子さんは富士フイルムの実業団チームで主将を務めた元トップ選手で、息子の2mを超える体格と器用さは、母親から受け継いだものだと言われています。
この記事では、母親いく子さんの経歴や身長、そして息子にあえてバレーをやらせなかった意外な理由まで、公開されている情報をもとに整理していきます。
読み進めれば、日本代表ミドルブロッカーを支えた家族の物語がきっと見えてきますよ。
記事のポイント
①:母親・いく子は富士フイルムの元実業団選手
②:身長は179cmで全日本にも選ばれた実力者
③:膝の故障で息子にバレーを勧めなかった
④:現在もママさんバレーを続ける現役ぶり
小野寺太志の母親・いく子の経歴と実業団時代
- 母親・いく子の富士フイルム実業団時代
- 石巻市女子高校から全日本選手までの歩み
- 母親の身長179cmと恵まれたDNA
- 母親が息子にバレーをやらせなかった理由
- 母親いく子の現在とママさんバレー
母親・いく子の富士フイルム実業団時代
この投稿をInstagramで見る
まず、小野寺太志さんの母親・いく子さんがどんな人物なのか、経歴から確認していきましょう。
結論から言うと、いく子さんは1981年から1989年まで富士フイルムの実業団チームでプレーし、主将まで務めた元トップバレーボール選手です。
息子の太志さんが日本を代表するミドルブロッカーになったのも、母親のDNAを考えれば決して偶然ではないことが分かります。
下記の表は、母親・いく子さんの基本情報をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小野寺いく子(おのでら いくこ) |
| 生年月日 | 非公表(1962〜1963年頃) |
| 2026年08月04日現在の年齢 | 約63歳 |
| 出身 | 宮城県(石巻市女子高等学校出身) |
| 身長 | 179cm |
| ポジション | アウトサイドヒッター |
| 所属歴 | 富士フイルム(1981〜1989年・主将経験) |
| 現在 | ママさんバレー・地域のバレー活動 |
富士フイルム実業団チームでの8年間
いく子さんが富士フイルムの実業団チームに所属していたのは、1981年から1989年までの約8年間です。
当時の実業団バレーは日本リーグとして高い注目を集めており、各企業が自社のチームに一流選手を集めてしのぎを削っていた時代でした。
その中でいく子さんは、アウトサイドヒッターとして長くチームを支え続けます。
8年という在籍期間は、当時の女子バレー選手としては十分に長く、それだけ息の長い活躍を続けたことの証でもありますね。
膝の故障を抱えながらも第一線でプレーし続けた姿勢からは、芯の強さがうかがえます。
主将を任されたリーダーシップ
いく子さんの経歴で特に注目したいのが、富士フイルムで主将を務めた経験です。
チームの主将は、実力だけでなく人間性やまとめる力がなければ任されないポジションです。
一流企業の実業団チームでキャプテンを託されたという事実は、いく子さんが技術と統率力の両方を備えた選手だったことを物語っています。
息子の太志さんも、日本代表でチームの潤滑油と呼ばれる存在に育ちました。
周囲をまとめる資質という点でも、母親からの影響を感じずにはいられませんよね。
元主将のDNAが息子へ
母親がトップレベルの実業団で主将を務めていたと聞くと、息子の活躍にも納得がいきます。
J SPORTSの選手名鑑でも、太志さんについて「両親がバレーボール経験者で、母は日本リーグで活躍した選手という恵まれたDNAを持つ」と紹介されているほどです。
体格だけでなく、バレーボールに必要なバランス感覚や器用さも、母親から受け継いだ財産と言えるでしょう。
ここ、気になるポイントだと思うので、母親の選手時代の歩みをさらに詳しく見ていきますね。
石巻市女子高校から全日本選手までの歩み
ここでは、母親・いく子さんが選手として歩んできた道のりを整理します。
結論から言うと、いく子さんは石巻市女子高等学校を経て全日本メンバーにも選出された、実力派の選手でした。
単なる実業団選手というだけでなく、日本のトップクラスまで上り詰めた経歴の持ち主なのです。
中学からバレー一筋の少女時代
いく子さんがバレーボールに打ち込み始めたのは、中学生の頃だったと伝えられています。
その後、宮城県の石巻市女子高等学校へ進学し、本格的にバレーボールの道を歩み始めました。
石巻市女子高校は宮城県内でも歴史のある学校で、女子バレーの選手を数多く育ててきた土壌があります。
高校時代にしっかりと基礎を積み上げたことが、その後の実業団での活躍につながっていったのでしょう。
富士フイルムで1年目からレギュラー
高校卒業後、いく子さんは実業団の富士フイルムへと進みます。
驚くのは、入団1年目からレギュラーとしてコートに立っていたという点です。
実業団は各校のエースが集まる場所ですから、1年目から定位置を勝ち取るのは並大抵のことではありません。
それだけ高校時代から突出した実力を持っていたことがうかがえますね。
アウトサイドヒッターとして攻守にわたってチームに貢献していたと伝えられています。
23歳で全日本メンバーに選出
いく子さんのキャリアのハイライトが、全日本メンバーへの選出です。
複数のメディアによると、23歳のときに全日本のメンバーに選ばれたと伝えられています。
日本代表に選ばれるということは、その世代の中でも指折りの選手だった証明にほかなりません。
息子の太志さんも2015年に日本代表へ初招集されていますが、母子で日本代表に縁があるというのは本当にすごいことですよね。
まさに、バレーボールのサラブレッド一家と呼ぶにふさわしい歩みです。
23歳という年齢で代表に呼ばれるのは、選手として最も脂が乗った時期に評価されていた証でもあります。
当時の女子バレーは日本リーグを中心に高い人気を集め、代表に名を連ねる選手は各企業チームのエースクラスばかりでした。
その激しい競争の中で選ばれたのですから、いく子さんの実力が本物だったことは間違いありませんね。
28歳で現役を引退
順調に見えたいく子さんのキャリアですが、引退は少し早く訪れます。
いく子さんは28歳のときに怪我が理由で現役を引退しました。
長年の激しいプレーで両膝に大きな負担がかかっていたことが、引退の背景にあったとされています。
トップ選手ゆえに体を酷使し続けた結果でもあり、勝負の世界の厳しさを感じさせるエピソードです。
母親の身長179cmと恵まれたDNA
小野寺太志さんといえば202cmという圧倒的な身長が特徴ですが、その体格のルーツはどこにあるのでしょうか。
結論から言うと、母親・いく子さんの身長は179cmで、女性としてはかなりの長身です。
父・学さんが186cmであることも合わせると、太志さんの2mの体格は両親譲りだと分かりますね。
女性で179cmという長身
いく子さんの身長179cmは、日本人女性の平均を大きく上回る数字です。
厚生労働省の統計における成人女性の平均身長がおよそ158cm前後であることを考えると、平均より20cm以上も高い、まさにアスリート体型だったことが分かります。
バレーボールのアウトサイドヒッターとして、この高さは大きな武器になったはずです。
2mを超える息子と並んでも違和感がないというのも納得ですよね。
ネットの高さが決められた競技において、身長179cmという体格はそのまま高い打点や広いブロック範囲につながります。
高さと同時にスピードも求められるアウトサイドヒッターで長く活躍できたのは、体格に加えて技術が備わっていた証拠です。
父・学の186cmとの相乗効果
両親の身長を並べてみると、太志さんの体格の秘密がよく見えてきます。
下記の表は、小野寺家の身長をまとめたものです。
| 続柄 | 名前 | 身長 |
|---|---|---|
| 父親 | 小野寺学 | 186cm |
| 母親 | 小野寺いく子 | 179cm |
| 本人 | 小野寺太志 | 202cm |
父親186cm、母親179cmという両親から生まれれば、子どもが高身長になるのはある意味必然と言えます。
両親ともにバレーボール選手だったことも合わせ、体格と競技適性の両面で恵まれたDNAを受け継いだのですね。
身長だけではない器用さの遺伝
太志さんの魅力は、身長の高さだけではありません。
2mを超える体格でありながら、スパイクやブロックに加えてレシーブやトスまで器用にこなす、バランス型のミドルブロッカーとして知られています。
実はいく子さんも、水泳を勧めれば全種目をすぐにマスターする器用な息子の姿を「この時から際立っていた」と振り返っています。
高さと器用さを兼ね備えた稀有な選手は、母親ゆずりの運動神経があってこそ生まれたのでしょう。
実際、太志さん自身も現役時代の母について「日本リーグで活躍した選手」と周囲から聞かされながら育ってきました。
身長という目に見える遺伝だけでなく、ボールをコントロールする感覚やコートを読む力も、母から自然に受け継いだのかもしれません。
両親がともに得点源となるポジションを担っていたことを考えると、攻撃センスの高さも血筋と言えそうですね。
母親が息子にバレーをやらせなかった理由
両親ともに元バレーボール選手なら、息子に自然とバレーを勧めそうなものですよね。
ところが結論から言うと、母親・いく子さんは息子にあえてバレーボールをやらせようとはしませんでした。
そこには、トップ選手だったからこそ抱えた、切実な事情があったのです。
両膝を壊した現役時代の苦しみ
いく子さんが息子にバレーを勧めなかった最大の理由は、自身の体の故障にありました。
いく子さんはNumber Webの取材に対し、「私自身が両膝を壊したり、結構しんどい思いをした」と当時を語っています。
激しいプレーの代償として、現役を終える頃には両膝がボロボロになっていたそうです。
母親として、自分と同じ苦しみを息子に味わわせたくないという思いがあったのでしょう。
トップレベルで戦った人ほど、その裏にある故障やプレッシャーの重さを知っています。
だからこそ、我が子には同じ道を無理に歩ませたくないと考えたのは、ごく自然なことですよね。
「バレーが嫌いになって引退した」本音
いく子さんの言葉には、さらに踏み込んだ本音がありました。
いく子さんは「ハッキリ言えばバレーボールを嫌いになって現役を終わった」とまで打ち明けています。
引退後はバレーとは一線を引き、自分がやるどころか試合を見るのも嫌で、一切観戦しなかったといいます。
それほどまでに、現役時代の心身の負担は大きかったということですね。
この率直な告白があるからこそ、後の母子の物語がより感動的に響いてきます。
だから太志は野球少年になった
母親がバレーを勧めなかった結果、太志さんは自然と別のスポーツへ向かいます。
地元の宮城県名取市は野球が盛んな土地柄で、太志さんは小学3年生から近所のスポーツ少年団で野球を始めました。
中学でも野球部に所属し、中学3年生の夏まで白球を追い続けます。
母親の思いに沿うように、少年時代の太志さんは野球一筋の日々を過ごしていたのですね。
最後は父の一声でバレーへ転向
それでも運命は、太志さんをバレーボールへと導きます。
中学3年で野球を引退した後、父・学さんの勧めで宮城県選抜の選考会に参加したことがバレー転向のきっかけとなりました。
母親がブレーキ役だったのに対し、背中を押したのは父親だったという構図も興味深いところです。
結果的にこの転向が、日本代表ミドルブロッカー誕生への第一歩となったのですから、人生は分からないものですよね。
母親が守りに入り、父親が挑戦を後押しするという役割分担は、多くの家庭にも通じるものがあります。
結果として太志さんは、母の心配を乗り越えながら、自分の意思でバレーの道を選び取っていきました。
母親いく子の現在とママさんバレー
選手として、そして母親として息子を育て上げたいく子さんは、現在どのように過ごしているのでしょうか。
結論から言うと、いく子さんは現在もママさんバレーを続け、地域のバレーボール活動に貢献していると伝えられています。
あれほどバレーが嫌になって引退したはずのいく子さんが、再びコートに戻っているのは感慨深いですね。
引退後に再び戻ったコート
現役時代はバレーを見るのも嫌だったといういく子さんですが、時を経てその思いは変化していきます。
結婚して家庭を築いた後、いく子さんはママさんバレーという形で再びバレーボールと向き合うようになりました。
一度は距離を置いた競技に戻ってきたのは、やはりバレーへの愛情が心のどこかに残っていたからでしょう。
息子の成長を見守るうちに、その気持ちが再燃したのかもしれませんね。
ママさんバレーは勝敗以上に交流や健康づくりを楽しむ場でもあり、心から競技と向き合えます。
現役時代とは違う形で、いく子さんは再びバレーボールの魅力を味わっているのでしょう。
地域のバレー活動への貢献
いく子さんの現在の活動は、個人の趣味にとどまりません。
いく子さんは地域のバレーボール活動にも積極的に関わり、貢献を続けていると紹介されています。
トップレベルで培った技術と経験を、地元のバレーボール仲間に還元しているのですね。
選手として輝いた人が、地域スポーツの土台を支える存在になっている姿はとても素敵です。
長く第一線で戦った選手だからこそ、後進の指導や仲間づくりで果たせる役割は大きいはずです。
勝ち負けの厳しい世界を経験したうえで、今は純粋にバレーを楽しむ立場へと戻れたのかもしれませんね。
息子の試合を会場で応援
母親としてのいく子さんは、息子の応援にも熱心です。
小野寺家はとても仲が良く、Vリーグの試合には家族で直接会場まで足を運んで応援することも多いと伝えられています。
かつて試合を見るのも嫌だったいく子さんが、今は息子のプレーを会場で見守っているというのは、大きな心境の変化ですよね。
パリ五輪や日本代表の舞台で戦う息子の姿は、母親にとって何よりの誇りに違いありません。
これからも息子を支える存在
いく子さんはこれからも、母親として太志さんを支え続けていくことでしょう。
2026年08月04日現在も日本代表として第一線で活躍する太志さんにとって、母の存在は大きな心の支えです。
ママさんバレーで体を動かしながら、息子の活躍を見守るいく子さんの日々は、これからも続いていきます。
新しい情報が入れば、今後もアップデートしていきますね。
小野寺太志の母親が語る子育てと現在
- 母親が語る2mビッグベイビー誕生秘話
- 一人っ子・太志を育てた母の教育方針
- 母が勧めた水泳と器用さの原点
- 母の手料理と豆腐ハンバーグの思い出
- 父・学と母いく子の夫婦バレー一家
母親が語る2mビッグベイビー誕生秘話
この投稿をInstagramで見る
ここでは、母親・いく子さんが語った太志さん誕生のエピソードを紹介します。
結論から言うと、太志さんは生まれたときから身長55cm・体重4000gという大きな赤ちゃんでした。
後に日本を代表するミドルブロッカーになる片鱗は、まさに生まれた瞬間から表れていたのです。
予定日より早く生まれた大きな赤ちゃん
太志さんが生まれたのは1996年2月27日、30歳になる日本代表選手の誕生日です。
いく子さんによると、「予定日は3月3日で、生まれて来たのは2月27日。ちょっと早かった」とのことでした。
予定日より少し早い出産だったにもかかわらず、体はすでに立派な大きさだったといいます。
早産気味でこの大きさというのは、いかに恵まれた体格の持ち主だったかが分かりますね。
のちに202cmまで伸びる素質は、この誕生の瞬間からすでに芽生えていたのかもしれません。
母親にとっても、予想以上に大きな我が子の誕生は驚きの連続だったことでしょう。
産着から肘まで出ていたエピソード
誕生時の大きさを物語る、印象的なエピソードがあります。
いく子さんは「身長55センチで4000g。産着から手だけじゃなく肘まで出ていました」と笑いながら振り返っています。
一般的な新生児の身長がおよそ50cm前後であることを考えると、55cmというのはかなり大きめです。
産着から肘まではみ出してしまうという表現からも、太志さんが桁外れのビッグベイビーだったことが伝わってきますね。
この誕生エピソードは、母・いく子さんがメディアの取材で笑いながら語った印象深い思い出でもあります。
健康優良児として育った幼少期
生まれたときから大きかった太志さんは、その後も順調に成長していきます。
いく子さんによれば、太志さんはずっと健康優良児で、縦にも横にもぐんぐん大きくなっていったそうです。
小学生の頃は朝からカレーをバクバク食べるほどの食欲だったといいます。
のびのびと健康に育った幼少期が、後のアスリートとしての体づくりの土台になっていったのでしょう。
好き嫌いなくよく食べる子どもだったことも、大きく丈夫な体をつくる土台になったはずです。
成長期には縦にも横にもぐんぐん大きくなり、周囲からは常に頭ひとつ抜けた存在だったといいます。
中学入学時にはすでに178cmに達しており、野球界でも有望株として注目される少年でした。
生まれたときのビッグベイビーぶりが、そのまま順調な成長へとつながっていったのですね。
一人っ子・太志を育てた母の教育方針
小野寺太志さんには兄弟がおらず、一人っ子として育ちました。
結論から言うと、いく子さんは仕事と両立しながら、周囲に協力してもらって太志さんを育て上げたのです。
その環境が、太志さんの穏やかで協調性のある性格を形づくっていきました。
産休明けすぐに仕事へ復帰
いく子さんは、出産後も早い時期に社会復帰しています。
いく子さんは産休を終えて間もなく仕事に復帰し、太志さんは0歳の頃から託児所で母を待つ日々を過ごしました。
共働きで忙しい家庭でしたが、その分たくましく育っていったといいます。
働く母親の背中を見て育ったことも、太志さんの人格形成に影響を与えたのかもしれませんね。
母が一生懸命働く姿を間近で見ていたことは、努力を惜しまない太志さんの姿勢にも通じています。
共働き家庭ならではの自立心が、幼い頃から自然と身についていったのでしょう。
「みんなに育ててもらった」環境
太志さんの子育ては、家族だけで完結するものではありませんでした。
託児所の迎えを近所の友人や親戚に頼むことも多く、太志さんは「一人っ子だけどワガママも言わず、みんなに育ててもらった」といく子さんは語っています。
近所の友達の家に「ただいま」と帰るような、地域ぐるみの温かい環境で育ったのです。
友達の兄弟たちからは「太志兄ちゃん」と慕われる、面倒見のよい子どもだったといいます。
ワガママを言わないおとなしい性格
幼い頃の太志さんは、とても聞き分けのよい子だったようです。
家で遊ぶときも「ここ以外の場所はダメだよ」と言えば、決めた一角にだけ落書きやシールを貼る、きちんとルールを守る子どもだったといいます。
泣いて暴れることもなく、周りを困らせることは一切なかったそうです。
この穏やかな性格が、日本代表でチームの潤滑油と呼ばれる人柄につながっているのですね。
母の環境づくりが性格の土台に
太志さんの人柄を語るうえで、幼少期の環境は欠かせません。
いく子さん自身も、日本代表でムードメーカーになる息子の性格について「小さい頃の環境が影響しているかもしれない」と感じているようです。
周囲の人に支えられて育った経験が、他者を思いやる気持ちや協調性を育てたのでしょう。
母親のつくった温かい環境が、選手・小野寺太志の土台になっていることは間違いなさそうです。
兄弟がいない分、地域の子どもたちと兄弟のように過ごした経験が、太志さんの社会性を育てました。
この土台があったからこそ、大所帯の日本代表でも自然とチームに溶け込めるのでしょうね。
母が勧めた水泳と器用さの原点
太志さんの器用さの原点をたどると、母親の勧めた習い事にたどり着きます。
結論から言うと、いく子さんが体重を落とすために勧めた水泳が、太志さんの器用さを育てるきっかけになりました。
母親のちょっとした判断が、後のバランス型ミドルブロッカーを生む布石になっていたのです。
体重を落とすために始めた水泳
健康優良児だった太志さんは、縦だけでなく横にも大きく成長していきました。
そんな息子を見たいく子さんは、まず体重を落とすために水泳を勧めたといいます。
ダイエット目的で始めた水泳でしたが、これが思わぬ形で太志さんの才能を開花させることになります。
母親の何気ない一手が、結果的に大きな意味を持ったわけですね。
健康を気づかう母の視点が、思いがけず息子の運動能力を伸ばすきっかけになったのです。
子どもの体を第一に考えるという、母親らしい判断だったと言えますね。
全種目をマスターした器用さ
水泳を始めた太志さんは、すぐに頭角を現します。
太志さんは自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライと全種目をあっという間にマスターしてしまいました。
いく子さんも「器用さはこの時から際立っていた」と振り返っています。
ひとつの種目にとどまらず、すべてをこなしてしまうあたりに、天性のセンスがうかがえますね。
野球でも発揮された運動神経
太志さんの器用さは、水泳だけにとどまりませんでした。
野球少年時代には、監督から「太志は三振かホームランでいいぞ」と言われながらも、しっかりバットに当ててヒットを打ってしまう器用さを見せていました。
足が遅いという弱点はあったものの、ボールを的確にとらえる技術は人一倍だったのです。
この器用さこそ、バレーボールに転向してから一気に開花する才能の源だったのですね。
器用さが生んだバランス型MB
幼い頃から培われた器用さは、バレーボール選手としての武器になりました。
太志さんは2mを超える高さを持ちながら、スパイクやブロックだけでなくレシーブやトスまでこなす、稀有なバランス型のミドルブロッカーへと成長します。
母親が勧めた水泳や、野球で磨いた運動神経が、すべて今のプレースタイルにつながっているのです。
母の存在が、選手・小野寺太志をどれだけ形づくったかがよく分かりますよね。
ひとつのことに固執せず、何でも器用にこなしてしまうのは、幼い頃からの積み重ねがあってこそです。
母の何気ない働きかけが、結果的に世界と戦う選手の土台をつくったと言えますね。
母の手料理と豆腐ハンバーグの思い出
母親いく子さんと太志さんの絆を語るうえで、食のエピソードは外せません。
結論から言うと、太志さんがこの世で一番好きなものとして「母親の手料理」を挙げるほど、母の料理は特別な存在です。
元アスリートの母がつくる食事は、味だけでなく栄養面でも工夫が詰まっていました。
大好物は母の豆腐ハンバーグ
太志さんの好物として知られているのが、母親の手料理です。
太志さんは結婚する前、母親が作る「豆腐ハンバーグ」が大好きだったと語られています。
ヘルシーで栄養バランスもよい豆腐ハンバーグは、アスリートの食卓にぴったりのメニューですね。
普通のハンバーグよりもあっさりしていて、成長期の子どもにも食べやすい一品です。
母親が元選手だからこそ、体づくりを意識した料理を心がけていたのでしょう。
豆腐を使ったヘルシーな一品は、脂質を抑えつつタンパク質をとれる理にかなったメニューです。
好物として名前が挙がるほど、家庭の味は太志さんの記憶に深く刻まれているのですね。
栄養を考えた元アスリートの食卓
いく子さんの料理には、トップ選手だった経験が生きています。
母親が元アスリートだからこそ、栄養バランスを考えた料理を日々心がけていたと伝えられています。
成長期に2mまで身長が伸びた背景には、こうした食事の支えがあったはずです。
体づくりの土台を家庭の食卓から支えていたのですね。
早起きして作った手作り弁当
母の愛情は、日々のお弁当にも込められていました。
家族に関するエピソードとして、いく子さんが息子のために早起きしてお弁当を作っていたことが語られています。
忙しい共働きの生活の中でも、息子のために手を抜かなかった母の姿が目に浮かびます。
こうした日々の積み重ねが、母子の強い絆を育てていったのでしょう。
今も続く母への感謝
太志さんが母親に寄せる思いは、大人になった今も変わりません。
太志さんは尊敬している人物として「両親」を挙げ、この世で一番好きなものに「母親の手料理」と「父親との晩酌」を挙げています。
トップアスリートになった今も、家族への感謝を忘れない姿勢は多くの人の共感を呼びますね。
母の手料理は、太志さんにとって心の原点であり続けているのです。
結婚して家庭を持った今でも、帰省のたびに母の味を楽しみにしているのではないでしょうか。
食を通じて注がれた母の愛情が、太志さんの心と体の両方を支えてきたことがよく分かります。
アスリートを陰で支える家庭料理の大切さを、改めて感じさせてくれるエピソードですね。
父・学と母いく子の夫婦バレー一家
最後に、母親いく子さんを含めた小野寺家全体について整理します。
結論から言うと、小野寺家は両親ともに元バレーボール選手という、生粋のバレー一家です。
父と母、それぞれのバックボーンを知ると、太志さんの活躍の理由がより深く見えてきます。
父・小野寺学のバレー経歴
父・学さんも、母に劣らぬバレーボール選手でした。
学さんは東北高校から順天堂大学へ進学し、身長186cmのサイドアタッカーとしてインカレにも出場した実力者です。
太志さんが父の母校である東北高校に進んだことからも、父子の深いつながりが感じられます。
父の勧めでバレーに転向したことも合わせて、学さんの影響は非常に大きいと言えますね。
順天堂大学は大学バレー界でも伝統校として知られ、その舞台で活躍した実力は本物です。
父も母もトップレベルを知る家庭で育ったことが、太志さんの競技人生を大きく後押ししました。
箸の使い方に厳しかった父
父・学さんは、競技だけでなく生活面でも息子を厳しく育てました。
学さんは幼少期の太志さんに対し、箸の使い方を厳しく指導するなど、礼儀や作法を重んじる教育を行っていたといいます。
技術面だけでなく、人としての土台をしっかり築こうとした父の姿勢がうかがえます。
今では帰省のたびに一緒に晩酌をして語り合うのが、親子の楽しみになっているそうです。
両親から受け継いだ才能
両親の経歴を並べると、太志さんの才能のルーツが明確になります。
下記の表は、小野寺家の両親のバレーボール経歴をまとめたものです。
| 続柄 | 出身・所属 | ポジション |
|---|---|---|
| 父・学 | 東北高校→順天堂大学 | サイドアタッカー |
| 母・いく子 | 石巻市女子高校→富士フイルム | アウトサイドヒッター |
父母ともにトップレベルでプレーした経験を持つ家庭で育てば、太志さんがバレーの才能を開花させたのも必然だったのでしょう。
まさに、両親のDNAと環境がそろった理想的なバレー一家ですね。
家族全員で支える日本代表
太志さんの活躍は、家族全員の支えがあってこそ成り立っています。
小野寺家は仲が良く、Vリーグの試合を家族で会場まで応援に行くことも多いと伝えられています。
母・いく子さんの経験、父・学さんの教育、そして家族の温かいサポートが一つになり、日本代表・小野寺太志が誕生したのです。
今後も家族に支えられた太志さんの活躍から、ますます目が離せませんね。
両親が同じ競技を知り尽くしているからこそ、息子の悩みや葛藤にも的確に寄り添えたのでしょう。
技術面でも精神面でも、これ以上ないサポート体制が小野寺家には整っていたのです。
小野寺太志の母親に関する総まとめ
- 母親の小野寺いく子は日本リーグで活躍した元バレー選手
- 富士フイルムの実業団で1981年から8年間プレーした
- 実業団の富士フイルムでは主将を務めた統率力の持ち主
- 母いく子の出身地は宮城県で石巻市女子高等学校の卒業生
- 富士フイルム入団1年目からレギュラーとして活躍した
- 23歳の若さで全日本のメンバーにも選出された実力者
- 度重なる怪我のため28歳という若さで現役を引退した
- 母いく子の身長は179cmの長身アスリート体型である
- 父・学は186cmで太志の高身長は両親譲りといえる
- 現役時代に両膝を壊しバレーが嫌になって引退している
- 母は息子の太志にあえてバレーを勧めようとしなかった
- 太志は野球少年として育ち中学3年でバレーへ転向した
- 太志の大好物は母いく子がつくる豆腐ハンバーグだった
- 母は早起きして息子のために手作り弁当を用意していた
- 現在もママさんバレーを続けて地域の活動に貢献している
▶️他の有名人の家族・嫁・夫・子供・親族が知りたい|カテゴリー・記事一覧
