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長池徳二さんの現在について、気になっている方は多いはずです。
阪急ブレーブスの不動の4番として本塁打王3回・打点王3回のタイトルを獲得した名選手ですが、引退から45年以上が経ち、今はどこで何をしているのか分かりにくくなっています。
さらに検索すると「長池徳二」と「長池徳士」という2つの表記が混在していて、戸惑う方も多いようです。
結論から言うと、長池さんは現在も解説者として活動を続けていて、最近もSNSで元気な近影が話題になりました。
この記事では長池徳二さんの現在の活動と、2つの名前表記が生まれた理由について、あなたが納得できる形で整理していきます。
記事のポイント
①:本名は徳二、1979年から徳士表記に変化
②:阪急不動の4番、本塁打王3回・打点王3回
③:背番号3は憧れの長嶋茂雄にちなむ逸話
④:現在は解説者、片岡篤史との2ショットが話題
長池徳二の現在|プロフィールと名前表記の真相
- 長池徳二の現在のプロフィール|最新の近況
- 長池徳二と長池徳士|名前表記が分かれた理由
- 徳島・撫養高校時代と甲子園へ届かなかった夏
- 法政大学時代と鶴岡一人監督が結んだ縁
- 1965年ドラフト1位・阪急入団の舞台裏
長池徳二の現在のプロフィール|最新の近況
1977 No.84
目指せ!ペナント奪取No.10
長池徳二(阪急)#プロ野球チップス https://t.co/HYc1UdwEqM
— プロチ集めおじさん (@calbee1973oji) November 29, 2025
長池徳二さんとは、一体どんな経歴を持つ人物なのでしょうか。
結論から言うと、阪急ブレーブスで14シーズンにわたり不動の4番を務め、通算338本塁打を記録した名選手です。
2026年11月05日現在、長池さんは82歳になりました。
現役時代の登録名は長池徳二でしたが、現在は長池徳士の名でも知られています。
ここでは、まず長池さんの基本的な経歴と、現在に至るまでの記録を整理していきます。
基本プロフィール一覧
下記の表は、長池さんの基本的な経歴をまとめたものです。
| 項目 | プロフィール内容 |
|---|---|
| 氏名 | 長池徳二(現在の登録名は長池徳士) |
| 生年月日 | 1944年2月21日 |
| 2026年11月05日現在の年齢 | 82歳 |
| 出身地 | 徳島県鳴門市 |
| 身長/体重 | 175cm/82kg |
| 投打 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手(晩年は指名打者も兼任) |
| 経歴 | 撫養高校(現・徳島県立鳴門渦潮高校)-法政大学 |
| ドラフト | 1965年ドラフト1位(阪急ブレーブス) |
| 現役期間 | 1966年~1979年(阪急一筋14シーズン) |
| 現在の活動 | 野球解説者 |
撫養高校から法政大学を経て、1965年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団したのが長池さんのキャリアの出発点です。
現役時代は14シーズンにわたって阪急一筋でプレーし、引退後は現在まで球界に関わり続けています。
現役時代の通算成績ひと目で分かる記録
長池さんの現在の評価を語るうえで欠かせないのが、現役時代に積み上げた記録の大きさです。
下記の表は、NPB公式データに基づく長池さんの年度別成績をまとめたものです。
| 年度 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|
| 1966年 | 68 | .263 | 7 | 22 |
| 1967年 | 129 | .281 | 27 | 78 |
| 1968年 | 132 | .238 | 30 | 79 |
| 1969年 | 129 | .316 | 41 | 101 |
| 1970年 | 121 | .309 | 28 | 102 |
| 1971年 | 130 | .317 | 40 | 114 |
| 1972年 | 111 | .290 | 41 | 95 |
| 1973年 | 128 | .313 | 43 | 109 |
| 1974年 | 121 | .290 | 27 | 96 |
| 1975年 | 103 | .270 | 25 | 58 |
| 1976年 | 110 | .238 | 12 | 59 |
| 1977年 | 58 | .275 | 10 | 27 |
| 1978年 | 55 | .260 | 5 | 21 |
| 1979年 | 54 | .250 | 2 | 8 |
| 通算 | 1449 | .285 | 338 | 969 |
通算338本塁打・969打点という数字は、現在もなお阪急・オリックスの球団記録として語り継がれています。
特に1973年の43本塁打はシーズン自己最多で、球団記録としても現在まで価値を保っています。
名球会入りと「ミスターブレーブス」の由来
長池さんには「ミスターブレーブス」という愛称があります。
結論から言うと、阪急ブレーブス一筋で14シーズンを過ごし、チームの顔として活躍したことがこの愛称の由来です。
1967年から1975年にかけて不動の4番打者を務め、ベストナインには外野手で6回、指名打者で1回の合計7回選出されました。
パ・リーグ史上初めて指名打者部門でベストナインに選ばれた選手としても記録に残っています。
9年連続で25本塁打以上を記録したシーズンもあり、球界を代表する「右の大砲」として長く第一線で活躍しました。
これだけの実績を持つ選手が現在どのような立場にいるのか、気になりますよね。
現在の肩書きは解説者|今も元気な様子
では、長池さんの現在の肩書きは何なのでしょうか。
結論から言うと、現在は野球解説者として活動を続けていることが分かっています。
2018年に受けた取材では「現在は福岡放送解説者」と紹介されており、現役引退後も長く球界と関わり続けてきました。
同じ取材の中では、現場を離れた今もジムに通って体を鍛えていると語っています。
古巣オリックスについて触れた際には「4番の吉田正は40本打てる能力がある。1、2番なら宗や西野がいいかなとか、つい考えちゃうんですよね」と笑いながら話していました。
野球に対する情熱は、年齢を重ねた現在も変わらず燃え続けているようです。
前述の通り、現在82歳になった長池さんですが、後述する最近のエピソードからも健在ぶりがうかがえます。
長池徳二と長池徳士|名前表記が分かれた理由
「阪急ブレーブス闘将の黄金時代」の本買った✌️私がプロ野球に興味を持ったのは、阪急ブレーブスの試合を📺️で見たのがきっかけ🙆私の激推しベスト3選手は、今もこの3人です①長池徳二②山田久志③福本豊 https://t.co/xqYebSPxvm
— 池まっちゃん (@kamekameki) May 7, 2026
ここで気になるのが、なぜ「長池徳二」と「長池徳士」の2つの表記が存在するのかという点です。
結論から言うと、本名であり1978年までの登録名が「長池徳二」、1979年以降に使われるようになったのが「長池徳士」です。
同じ人物でありながら、時期によって登録名が異なるというのは珍しいケースです。
検索する人によって見ている情報源の年代が違うため、2つの表記が混在して見えてしまうわけです。
ここでは、この表記の違いを整理して、あなたの疑問を解消していきます。
本名は「長池徳二」|1978年まで使われた登録名
日刊スポーツが掲載した本人のプロフィール欄には、はっきりとした記載があります。
「本名および78年までの登録名は徳二(とくじ)」と明記されているのです。
つまり、1966年の入団から1978年まで、公式の登録名はずっと「長池徳二」だったことになります。
現役時代の主要なタイトルである本塁打王・打点王・MVPのほとんどは、この「長池徳二」の名前で獲得したものです。
ピクシブ百科事典などの解説でも、同じ内容が確認できます。
1979年から「長池徳士」表記に|きっかけと変更の経緯
一方で、1979年からは「長池徳士」という表記が使われるようになりました。
1979年は長池さんが現役を引退した年でもあり、ちょうどこのタイミングで表記が切り替わっています。
素材となった複数の百科事典的な情報源でも「1979年から長池徳士の名義も用いる」という共通した記述が見られます。
NPB公式サイトの個人年度別成績ページでも、現在は「長池 徳士」として表記されています。
引退後にコーチや解説者として活動する中で、この新しい表記が定着していったと考えられます。
メディアによって割れる読み方「とくじ」と「あつし」
さらに読み方にも、メディアによって違いがあります。
NPB公式サイトやピクシブ百科事典、野球丼では「ながいけ・とくじ」という読み方が使われています。
一方で日刊スポーツの記事では「長池徳士(あつし)」という読み方が採用されているのです。
同じ漢字でも読み方の記載が分かれるのは、長年の取材を重ねる中で生まれた表記のゆらぎだと見られます。
この記事では、より多くの情報源で確認できる「とくじ」の読みを基本として進めていきます。
検索で両方の表記が出てくる理由
下記の表は、2つの表記の違いを整理したものです。
| 比較項目 | 長池徳二 | 長池徳士 |
|---|---|---|
| 位置づけ | 本名・1978年までの登録名 | 1979年以降の登録名 |
| 主な使用源 | ピクシブ百科事典、野球丼、ファンのコメント | NPB公式サイト、日刊スポーツ、ニコニコ大百科 |
| 読み方 | とくじ | とくじ、またはあつし |
| 現役時の主要記録 | 本塁打王・打点王・MVPの獲得名義 | 該当なし(引退後の表記) |
つまり「長池徳二」も「長池徳士」も間違いではなく、同じ長池さん本人を指す2つの登録名なのです。
検索結果に両方の表記が混在して出てくるのは、この名前変更の経緯が背景にあると考えれば納得できますよね。
徳島・撫養高校時代と甲子園へ届かなかった夏
長池さんの原点は、徳島県鳴門市での高校時代にあります。
結論から言うと、撫養高校でエースとして活躍しながらも、甲子園には一度も出場できなかったという経歴を持っています。
プロでは大打者として名を残した長池さんですが、高校時代は投手として注目されていました。
この挫折の経験が、のちの法政大学進学、そして阪急入団へとつながっていきます。
ここでは、長池さんの高校時代のエピソードを詳しく見ていきます。
撫養高校でエースとして活躍した高校時代
長池さんが通ったのは、徳島県の撫養高校(現在の徳島県立鳴門渦潮高校)です。
2年生だった1960年、秋季四国大会でエースとして優勝を飾っています。
この活躍により、翌1961年春の選抜高校野球(センバツ)への出場を決めたのです。
地方の無名校から中央の舞台へ駒を進めたことは、当時の地元にとって大きな出来事だったはずです。
投手としての長池さんの実力は、この時点ではっきりと証明されていました。
1961年春のセンバツ出場も初戦敗退
センバツへの出場権を得た長池さんでしたが、結果は厳しいものでした。
初戦で敗退し、甲子園のマウンドでは勝利をつかめなかったのです。
全国の強豪が集う舞台で、地方校が初戦を突破するのは簡単なことではありません。
それでも、センバツに出場したという経歴は、長池さんの高校時代を語るうえで欠かせない事実です。
この悔しさが、同じ年の夏に向けた原動力になったとも考えられます。
夏の甲子園は県予選準々決勝で敗退
春のセンバツに続いて、夏の甲子園出場も目指した長池さんでした。
しかし、徳島県予選の準々決勝で敗れ、夏の甲子園にも届かなかったという結果に終わります。
春夏ともに甲子園出場を逃したことで、高校時代の集大成は実を結びませんでした。
この経験を経て、長池さんの進路は大きな転機を迎えることになります。
南海・鶴岡一人監督によるテストと助言
高校時代の素質を見込んで、南海ホークスがテストを行ったのがこの時期です。
当時の監督は、名将として知られる鶴岡一人さんでした。
鶴岡監督は長池さんに対して「使い物になるには4年はかかるな。遊びに行ったつもりで大学行ってこい」と伝えたとされています。
厳しい助言のようにも聞こえますが、これは長池さんの将来性を見込んだうえでの言葉だったのでしょう。
鶴岡監督自身の紹介によって、長池さんは法政大学へ進学する道を選びました。
結果としてこの一言が、のちの大打者・長池徳二さんを育てる最初のきっかけになったのです。
法政大学時代と鶴岡一人監督が結んだ縁
法政大学に進学した長池さんですが、ここでも大きな転機が待っていました。
結論から言うと、投手から外野手へ転向し、首位打者を獲得するまでに成長したのが大学時代です。
高校時代は投手として評価されていた長池さんが、なぜ外野手に転向したのでしょうか。
肩のケガという避けられない事情が、その転機になりました。
ここでは、長池さんの大学時代の歩みを詳しく整理していきます。
肩を痛め投手から外野手に転向した経緯
法政大学に入学した長池さんは、早々に肩を痛めてしまいます。
投手としての道を断念した長池さんは、まず捕手への転向を試みました。
ところが、投手の球を受け続ける毎日で「打撃練習ができない」という理由から、自ら外野手への転向を直訴したのです。
この行動力が、長池さんのバッターとしての才能を開花させる第一歩になりました。
3年生で首位打者、4年生でリーグ優勝に貢献
外野手に転向した長池さんは、着実に成長を重ねていきます。
3年生だった1964年の秋季リーグでは、首位打者を獲得するまでに成長しました。
そして4年生の1965年春季リーグでは、チームの優勝に大きく貢献しています。
わずか2年ほどで、投手から大学球界トップクラスの打者へと変貌を遂げたことになります。
この急成長ぶりは、のちにプロでも本塁打王を獲るとは誰も想像していなかったでしょう。
大学時代は通算3本塁打の非力長打者だった事実
意外に思われるかもしれませんが、大学時代の長池さんは長距離打者ではありませんでした。
六大学リーグ通算60試合で打率.286、本塁打はわずか3本、打点30という成績だったのです。
本人も後年のインタビューで「僕は(法政)大学時代の4年間で3本しか打てませんでしたから」と振り返っています。
のちに本塁打王を3回獲得する選手の大学時代の記録としては、驚くほど控えめな数字ですよね。
この事実は、プロ入り後の青田昇コーチによる指導の大きさを物語っています。
鶴岡監督との「南海入団の約束」が崩れた背景
大学卒業を控えた長池さんには、ひとつの約束がありました。
高校時代に自分を評価し、大学進学を勧めた鶴岡一人監督のいる南海ホークスへ入団する、という約束です。
しかし、長池さんが卒業するタイミングで、プロ野球に新しくドラフト制度が導入されることになりました。
この制度変更により、個人同士の約束だけでは入団先が決まらなくなったのです。
前述の通り、この巡り合わせが長池さんの運命を大きく変えることになります。
1965年ドラフト1位・阪急入団の舞台裏
いよいよ長池さんはプロ野球選手としての一歩を踏み出します。
結論から言うと、1965年の第1回ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けたのが長池さんです。
南海入団を予定していた長池さんにとって、これは予想外の出来事でした。
ドラフト制度1期生として、長池さんの名前は野球史に刻まれることになります。
ここでは、入団当時の裏側を詳しく見ていきます。
ドラフト制度1期生として阪急が1位指名
1965年、日本プロ野球に初めてドラフト制度が導入されました。
長池さんは、記念すべき第1回ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けています。
この年にドラフトで指名された選手たちは「ドラフト1期生」として、現在でも野球史を語る際によく取り上げられます。
長池さんも、その歴史の最初のページに名を刻んだ選手のひとりです。
南海ではなく阪急を選んだ経緯と一時の動揺
当初、長池さんは鶴岡一人監督が率いる南海への入団を思い描いていました。
ところが、南海は2位指名を予定していたのに対し、阪急が先に1位指名を行ったことで状況が一変します。
想定していなかった球団からの指名に、長池さん自身も一時は動揺したと伝えられています。
それでも最終的には気持ちを切り替え、阪急への入団を決断しました。
この決断が、のちの「ミスターブレーブス」としての歴史につながっていくのです。
1年目は2軍暮らし|西本幸雄監督の決断
1966年、長池さんは阪急の1年目を迎えます。
しかし、プロのスピードに苦しみ、7月まで2軍暮らしが続いたというスタートでした。
当時の阪急には、ダリル・スペンサーという助っ人以外に長距離砲が見当たらない状況でした。
この戦力事情もあり、オールスター明けに西本幸雄監督が長池さんを1軍に引き上げる決断を下します。
結果として、この1年目は68試合の出場で打率.263、7本塁打、22打点という成績に終わりました。
「どちらか一人にしてください」から始まった二人三脚
1軍昇格後の長池さんは、西本監督と青田昇打撃コーチの両方から指導を受けていました。
ところが、長池さんは自ら「二人に言われるとよくわからんのでどっちか一人にしてください」と要望したというのです。
この一言がきっかけとなり、青田昇コーチが専属で指導する体制が整いました。
西本監督からは「スペンサーと並ぶ日本人のスラッガーを作りたい」という要請があったことも、青田コーチの指導に力を与えていたようです。
この二人三脚こそが、長池さんを本塁打王3回の大打者へと育て上げる土台になりました。
長池徳二は現在も健在|記録と最新の近況まとめ
- 背番号3に込めた長嶋茂雄への憧れ
- 独特の打撃フォームと本塁打王・打点王の記録
- 巨人との日本シリーズで味わった悔しさ
- 引退後のコーチ歴と現在の解説者としての活動
- プロスピA・栄冠ナインと片岡篤史との2ショット
背番号3に込めた長嶋茂雄への憧れ
長池さんの代名詞ともいえるのが「背番号3」です。
結論から言うと、阪急から与えられた背番号3には、長嶋茂雄さんへの憧れが込められていたというエピソードがあります。
これは本人が後年のインタビューで明かした、現在まで語り継がれる逸話です。
巨人の象徴だった「3」を背負うことに、長池さん自身も特別な感情を抱いていました。
ここでは、背番号3にまつわるエピソードを詳しく見ていきます。
長嶋茂雄と同じ「3」を託された理由
1965年のドラフトで阪急から1位指名を受けた長池さんには、主砲になることを期待されて背番号3が与えられました。
「3」は、当時の巨人で四番を打っていた長嶋茂雄さんの番号と同じです。
球団が期待の大きさを込めて、この番号を託したことは間違いありません。
長池さん自身も、この番号の重さを入団当初から強く意識していたようです。
「僕にとって長嶋さんは憧れの存在でした」本人の告白
長池さんは、長嶋さんへの思いを率直に語っています。
「僕にとって、巨人の四番を打つ長嶋さんは憧れの存在でした」と本人は振り返ります。
「(阪急に)入団する時に『背番号3で』と言われ、うれしかった半面、『もし活躍できなかったら……』という想いはありました」と続けました。
そして「長嶋さんの『3』は、やっぱり特別なんですよ」という言葉で、この逸話を締めています。
憧れの番号を背負うことへの喜びと、プレッシャーが入り混じった当時の心境がよく伝わってくる告白ですよね。
大学時代は4年間で3本、長嶋は1年で8本という実力差
長池さんと長嶋さんの間には、大学時代から大きな実力差がありました。
長池さんは「僕は(法政)大学時代の4年間で3本しか打てませんでしたから」と振り返っています。
一方の長嶋さんは、立教大学時代にわずか1年で8本塁打を放っていたというのです。
「これはすごい記録だなと思いました」と長池さんも素直に驚きを語っています。
この差があったからこそ、プロ入り後の長池さんにとって長嶋さんは、より一層特別な憧れの存在になっていったのでしょう。
現在に伝わる「背番号3」の物語としての価値
この背番号3のエピソードは、長池さんの現在の評価を語るうえでも欠かせない要素です。
単なる成績の記録だけでなく、憧れの選手と同じ番号を背負って戦った物語として、現在も野球ファンの間で語られています。
後述するように、長嶋さんが逝去した際に発刊された書籍でも、長池さんはこのエピソードを改めて語っています。
時代を超えて語り継がれるこうした逸話こそ、長池さんが現在も「ミスターブレーブス」として記憶され続けている理由のひとつだと言えそうです。
独特の打撃フォームと本塁打王・打点王の記録
長池さんを語るうえで欠かせないのが、あの独特な打撃フォームです。
結論から言うと、「左肩にアゴを乗せる」フォームから本塁打王3回・打点王3回という記録を打ち立てたのが長池さんです。
このフォームは最初から完成していたわけではなく、血のにじむ練習の末に生まれたものでした。
青田昇コーチとの二人三脚が、このフォームと記録を支えていました。
ここでは、フォームの誕生秘話と主要なタイトル獲得シーズンを振り返ります。
「左肩にアゴを乗せる」フォームが生まれた理由
長池さんの打撃フォームは、腕を大きく後ろに引き、大きなスタンスを取りながら左肩にアゴを乗せるという独特なものでした。
このフォームは、内角球への苦手意識を克服する練習の中から生まれたとされています。
外角のスライダーを打ちにいく際に、正面を向いているうちに自然とこの形になったという説明も伝えられています。
どちらの理由にせよ、このフォームは長池さんの代名詞として、現在もファンの記憶に強く残っています。
青田昇コーチの指導と血まみれの特打
このフォームを作り上げたのが、打撃コーチの青田昇さんです。
青田コーチは「ボールの内にグリップを入れて、内側から打て」と繰り返し指導しました。
長池さん本人は、その練習量について次のように語っています。
「キャンプで練習が終わった後、毎日400~500球は打っていました。マシンを内角ギリギリに設定して、打席の一番前に立って打つんです」
「そりゃ詰まってばかりでしたよ。手が腫れ、マメはつぶれて血まみれになる。手のひらと甲が腫れると、手が握れなくなるんです」という告白からは、壮絶な練習量が伝わってきます。
西本幸雄監督はその腫れ上がった手を見て、後年「手を見て、こいつはモノになると思った」と語っていたそうです。
1969年、野村克也の記録を止めた初の2冠
血のにじむ練習の成果が最初に結実したのが、1969年シーズンです。
打率.316、41本塁打、101打点という成績で、本塁打王と打点王の2冠を獲得しました。
この年、それまで本塁打王を独占していた野村克也さんの連続記録を止めたことでも大きな話題になりました。
プロ4年目にして、長池さんは球界の頂点に立つ打者へと成長を遂げたのです。
1972年、大杉勝男との壮絶な本塁打王争い
長池さんが最もライバルとして意識していたのが、東映フライヤーズの大杉勝男さんでした。
1970年、1971年と2年連続で本塁打王を大杉さんに許し、1971年は「大杉に勝つにはまず40本打たねば」と語るほど悔しさを募らせていました。
1972年はアキレス腱と肘の故障で1ヵ月ほど離脱し、大杉さんに大きく差を広げられます。
それでも9月には当時のプロ野球記録となる月間15本塁打を放ち、最終戦で逆転して3年ぶりに本塁打王の座を奪還しました。
最終戦での逆転本塁打王は史上初の出来事で、阪急ベンチはお祭り騒ぎになったと伝えられています。
1973年の43本塁打・二冠王と球団記録
長池さんのキャリアハイといえるのが、1973年シーズンです。
開幕からオールスター前までは打率.380ほどあり、三冠王も期待されるほどの好調ぶりでした。
最終的な打率は.313に落ち着き、首位打者は.337を記録した加藤秀司さんに譲る結果となります。
それでも43本塁打・109打点で本塁打王と打点王の二冠王を獲得し、43本は現在も球団記録として残っています。
この年の記録は、長池さんの現役生活における集大成ともいえるシーズンだったと言えそうです。
巨人との日本シリーズで味わった悔しさ
長池さんの現役生活を語るうえで、どうしても避けられないのが巨人との対戦です。
結論から言うと、V9時代の巨人に日本シリーズで5度挑み、5度とも敗れたのが長池さんの現役前半の記録です。
個人としては数々のタイトルを獲得した長池さんですが、チームとしての悔しさは現在もインタビューで語られ続けています。
長嶋茂雄さんの逝去をきっかけに刊行された書籍でも、長池さんはこの悔しさを詳しく振り返っています。
ここでは、巨人との日本シリーズをめぐる記憶を整理していきます。
1967年、阪急初優勝の原動力となった4番打者
1967年、長池さんは125試合で4番を務め、阪急創設初のリーグ優勝に貢献しました。
通算では1005試合もの先発出場を4番打者として記録しているスラッガーです。
優勝決定試合では胴上げされ、歓喜のビールかけでは満面の笑みで青田コーチにビールをかけたという微笑ましい逸話も残っています。
しかし、この年の日本シリーズで待っていたのは、巨人というあまりに高い壁でした。
巨人V9の壁|5度挑んで5度敗れた日本シリーズ
1967年から1969年、そして1971年、1972年と、阪急は合計5回日本シリーズで巨人と対戦しました。
結果はいずれも阪急の黒星で、5回挑戦してすべて巨人に敗れたのです。
長池さんは「結局、5回挑戦して、全部勝てませんでした。9連覇のうち、5回も協力してしまったことになりますね」と振り返っています。
1971年の日本シリーズ第3戦では、1対0でリードしていた9回2死から王貞治さんにサヨナラ本塁打を打たれるという伝説的な試合もありました。
「一球の怖さを思い知らされましたし、巨人の強さを感じました」という長池さんの言葉には、今も消えない悔しさがにじんでいます。
長嶋茂雄への敗北宣言とも言える本人の回想
長池さんは、当時の巨人の強さについて率直な感想を語っています。
「試合前のフリーバッティングでは、長嶋さんが最初に打ちます。全部スタンドに入るので、球場中のボールがなくなってしまうんじゃないかと思ったくらい」
「もう、練習の時点で圧倒されてしまっていましたね」という言葉からは、実力差を痛感していた様子が伝わってきます。
「とにかくONの壁が高かったですね。彼らには日本シリーズに勝つという使命があって、ビッグゲームに対する執着心が違っていました」とも振り返っています。
前述の通り背番号3に憧れを込めていた長池さんにとって、この壁の高さは特別な感情を伴うものだったはずです。
長嶋引退後に手にした日本一3連覇
巨人に苦しめられ続けた阪急でしたが、状況は1974年を境に変わります。
この年、長嶋茂雄さんが現役を引退し、巨人のV9時代が終わりを告げました。
翌1975年、阪急はリーグ優勝を果たし、日本シリーズで広島を下して球団初の日本一に輝きます。
長池さんは「せっかくリーグ優勝したのに、日本シリーズの相手が広島で、みんながっくりしてたね」と当時の心境を明かしています。
それでも1976年、1977年と2年続けて巨人を撃破し、日本一3連覇を達成しました。
「その時の巨人には(選手の)長嶋さんがいなかった。ミスターがいたら、勝てたかどうかわからん」という言葉には、長い歳月をかけたライバルへの敬意がこもっています。
引退後のコーチ歴と現在の解説者としての活動
現役引退後、長池さんは指導者としての道を歩み始めます。
結論から言うと、5球団でコーチを務め、数多くの強打者を育て上げたのちに現在は解説者として活動しているのが長池さんです。
自身が「作り上げられたスラッガー」だったからこそ、他の選手も同じように伸ばせるという信念を持っていたようです。
この指導者としての実績も、長池さんが現在まで球界で評価され続けている理由のひとつです。
ここでは、引退後の歩みを時系列で整理していきます。
西武・南海・横浜・ロッテを渡り歩いたコーチ人生
下記の表は、長池さんのコーチ歴をまとめたものです。
| 期間 | 球団 | 役割・エピソード |
|---|---|---|
| 1979年~1982年 | 阪急ブレーブス | 背番号3のまま一軍打撃コーチ |
| 1985年 | 西武ライオンズ | 広岡達朗監督の要請で入団 |
| 1987年~1988年 | 南海ホークス | 佐々木誠さんを指導 |
| 1993年~1995年 | 横浜ベイスターズ | 鈴木尚典さんらを指導 |
| 1997年~1998年 | 千葉ロッテマリーンズ | 小坂誠さんらを指導 |
阪急でのコーチ時代は、現役時代と同じ背番号3のまま一軍打撃コーチを務めていました。
その後もパ・リーグの各球団から声がかかり、指導者としての評価を確立していきます。
秋山幸二を4番に育てた日本刀指導
数あるコーチ歴の中でも衝撃的だったのが、1985年の西武ライオンズ入団です。
広岡達朗監督から「秋山幸二を4番にして欲しい」という一言が、入団の決め手になったとされています。
長池さんは、かつて自身が経験した日本刀で藁を切らせる指導法を取り入れました。
入団4年間で通算4本塁打だった秋山幸二さんが、指導を受けた直後にシーズン40本塁打をマークするまでに成長しています。
その後も南海で佐々木誠さん、横浜で鈴木尚典さん・石井琢朗さん・波留敏夫さん、ロッテで小坂誠さん・福浦和也さんを育て、パ・リーグの強打者を次々と輩出しました。
DH制度への本音「野球が終わった」発言の意味
現役晩年の長池さんには、本音をこぼしたエピソードもあります。
1975年から指名打者(DH)制度が導入され、長池さんも指名打者として出場する機会が増えました。
本人は「打って守ってが野球だからやる気がなくなった。野球が終わった」と語っていたそうです。
守備にもこだわりを持っていた長池さんらしい、率直な本音だったのでしょう。
この発言からは、記録だけでなく、プレーそのものを愛していた選手としての一面がうかがえますね。
現在は解説者として活動中
前述の通り、長池さんは現在、野球解説者として活動を続けています。
現場から離れた今もジムに通って体を鍛え、現役選手の評価にも率直な意見を語る姿が伝えられています。
長年にわたり選手・コーチとして関わってきた経験は、解説者としての現在の活動にも生かされているようです。
今後も、長池さんならではの視点での解説が期待されますね。
プロスピA・栄冠ナインと片岡篤史との2ショット
長池さんの現在の存在感は、野球ゲームの世界でも確認できます。
結論から言うと、プロスピAや栄冠ナインにOB選手として登場し、さらに最近はSNS上での近影も話題になっているのが長池さんです。
現役を引退してから長い時間が経った現在でも、様々な形で名前を見かける機会があるということです。
ここでは、ゲームの中での評価と、最近のリアルな近況の両方を整理していきます。
プロスピAでのOB評価と特殊能力
スマートフォン向け野球ゲーム「プロスピA」には、OB選手として長池徳二の名前が採用されました。
2023シリーズ2ではSランクに設定され、総ステータス9/10点という高い評価です。
ミート80・パワー83・走力73という能力値に加え、特殊能力「超パワーヒッター」「チャンス・改」「存在感(野手)」の3つを備えたカードです。
称号「好球必打」などを付けることでミートとパワーがA同値になるなど、現役最強クラスの選手と並ぶ強力な性能を誇るカードだと紹介されました。
栄冠ナイン・パワプロでの再現度
野球部経営シミュレーション「栄冠ナイン」シリーズにも、長池さんは出現年1959年・出身地徳島の転生OB選手として扱われる1人です。
星293という高い数値が設定されており、同じ徳島出身のOB選手の中でも有力な存在として扱われています。
「パワプロ」シリーズでも能力やフォームが再現され、独特な打撃フォームが今もゲームの中で表現され続けているのです。
現役時代の記録だけでなく、こうしたゲームを通じて現在の世代にも長池さんの名前が伝わっているのは興味深いポイントですよね。
片岡篤史のインスタグラムに登場した最新の近影
そして現在、最も話題になっているのが片岡篤史さんのインスタグラムに登場した一枚の写真です。
日本ハムファイターズや阪神タイガースで活躍した片岡篤史さんが「今日は元阪急のレジェンド長池さんとご一緒させて頂きました」と綴り、2ショットを披露しました。
82歳になった長池さんの元気な近影が公開されたのです。
片岡さんは「私もハム時代上田監督はじめ阪急の方にお世話になってますので色んな伝説をお聞きしました。普段なかなか聞けないお話をたくさん聞かせていただき、とても勉強になりました」と明かしています。
「ご健在でうれしいです」ファンの反響
この2ショットには、多くのファンから反響が寄せられました。
「おおお長池徳二さん 優秀なスラッガーでしたね」という声や、「ご健在でうれしいです」というあたたかいコメントが並んでいます。
「左肩にアゴを乗せるような構えが印象的」「もっと評価されるべき大打者だと思います」といった、現役時代を知るファンならではの感想も見られました。
前述の通り本塁打王3回・打点王3回という記録を持つ長池さんですが、現在も多くのファンに愛され続けていることがこの反響からも分かります。
今後も長池さんの元気な姿が、こうした形で伝えられることを期待したいですね。
長池徳二の現在に関する総まとめ
- 長池徳二は本名であり1978年までの現役時代の登録名だ
- 1979年以降は長池徳士という登録名が使われるようになった
- 2つの表記はいずれも同一人物を指す長池徳二のことだ
- 読み方も「とくじ」「あつし」とメディアによって分かれている
- 出身は徳島県鳴門市、撫養高校から法政大学へ進学した
- 高校時代は投手としてセンバツに出場したが初戦で敗退した
- 南海・鶴岡一人監督の助言で法政大学へ進学した経緯がある
- 大学時代は六大学通算で3本塁打という非力な打者だった
- 1965年ドラフト1位で阪急ブレーブスに入団を果たした
- 背番号3は長嶋茂雄への憧れにちなんで与えられた番号だ
- 青田昇コーチの指導で独特の打撃フォームを確立させた
- 通算338本塁打・969打点、本塁打王・打点王は3回ずつ獲得
- 巨人V9時代の日本シリーズに5度挑み5度敗れている
- 引退後は5球団のコーチを歴任し秋山幸二らを一流打者に育てた
- 現在は野球解説者として活動し片岡篤史との2ショットも話題になった

