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風間杜夫さんは1949年4月26日、東京都世田谷区三軒茶屋生まれの俳優です。
本名は住田知仁(すみたともひと)さんといい、幼い頃から子役として銀幕で才能を発揮してきた経歴の持ち主として知られています。
早稲田大学第二文学部演劇専修に進学するも中退し、俳優業に本格的に踏み出した異色の学歴が、多くのファンの間で注目を集めています。
玉川学園中等部・高等部を経て早稲田大学まで進んだキャリアは、8歳から子役として東映映画に多数出演した芸能経験と絶妙に絡み合っています。
この記事では、風間杜夫さんの出身校と学校時代の詳細なエピソードを、順を追って解説します。
記事のポイント
①:小学校時代から子役として活躍し東映映画に多数出演
②:玉川学園中等部・高等部に進学し演劇部部長を務めた
③:早稲田大学第二文学部演劇専修に進み中退し俳優へ
④:蒲田行進曲とスチュワーデス物語で一世を風靡した
風間杜夫の学歴と子役時代が生んだ俳優の原点
- 旭小学校時代から子役に開花|8歳で劇団「東童」入団
- 玉川学園中等部での芸能活動休止の背景と理由
- 玉川学園高等部の演劇部部長|志垣太郎との青春時代
- 高校時代の苦悩と早稲田大学進学への道のり
- 早稲田大学第二文学部演劇専修への進学と中退の経緯
旭小学校時代から子役に開花|8歳で劇団「東童」入団
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風間杜夫さんの基本プロフィールを下記の表にまとめました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 本名 | 住田知仁(すみたともひと) |
| 生年月日 | 1949年4月26日 |
| 2026年03月27日現在の年齢 | 76歳 |
| 出身地 | 東京都世田谷区三軒茶屋 |
| 身長 | 171cm |
| 血液型 | O型 |
| 職業 | 俳優・声優・落語家 |
また、以下の表で風間杜夫さんの学歴を整理してみます。
| 学校名 | 種別 | 備考 |
|---|---|---|
| 世田谷区立旭小学校 | 公立小学校 | 東京都世田谷区 |
| 玉川学園中等部 | 私立共学(偏差値46) | 子役活動を休止 |
| 玉川学園高等部 | 私立共学(偏差値58) | 演劇部部長 |
| 早稲田大学第二文学部演劇専修 | 私立大学 | 中退 |
風間杜夫さんの出身小学校は、地元東京都世田谷区内にある公立校の世田谷区立旭小学校です。
家族構成は両親と姉の4人家族で、父親は映画会社のセールスマンでした。
父親は映画や舞台が好きで、幼い頃から浅草の女剣劇や寄席に風間さんを連れて行ってくれたといいます。
そんな環境の中で育ったことが、後に風間さんが俳優という道を選ぶ大きな土台になったのは間違いないでしょう。
「舞台の上では一変する」と言われた幼少期
風間さんが演劇の世界に踏み込むきっかけは、幼稚園で知り合いの父母から言われた一言でした。
「普段はもじもじしているのに、舞台の上では一変する」という話が母親の耳に届き、小学2年生の時に児童劇団「東童」へ入団することになります。
当時のことを風間さんは次のように振り返っています。
「”トモちゃん”とは住田知仁というぼくの本名で、舞台の上では普段のもじもじした姿が一変する、と幼稚園で知り合いの父母に言われたらしく、おふくろは小学2年生のときにぼくを児童劇団に入れた。」
子供の頃は内気な性格だったという風間さんですが、舞台に立った瞬間に別人のようにはつらつとしていたのです。
そのギャップが周囲の大人たちの目を引き、翌年には東映児童演劇研修所に入所。その一期生として選ばれた風間さんは、瞬く間に仕事が舞い込むようになります。
売れっ子子役として東映映画に連続8本出演
マキノ雅弘監督や加藤泰監督といった当時の日本映画界を代表する監督たちの作品に次々と出演し、連続して8本の映画に出演したこともあったほどの引っ張りだこぶりでした。
少年雑誌の表紙を飾るほどの人気子役として、その名は広く知られるようになっていきます。
小学5年生の時には、撮影のために約10ヶ月もの間、京都で暮らしたこともありました。
「小学5年生の時は10か月ぐらい撮影所のある京都で暮らした。おふくろがそばにいてくれて心強かったが、ときには親父がおふくろに代わって、撮影所で仕事をするぼくに付き添ってくれた。」
事実上この時期は学校にほとんど通えない状態で、撮影所が生活の中心でした。
また父親は非常に厳しい人物でもあり、食事中のマナーが悪いとげんこつをされたり、気に入らないことがあると食事中でも座卓をひっくり返すこともあったといいます。
そうした厳格な父親の下で育ったことが、後の風間さんの誠実で真剣な仕事への姿勢の根幹を作っていったのかもしれません。
玉川学園中等部での芸能活動休止の背景と理由
小学生時代に売れっ子子役として活躍していた風間杜夫さんですが、中学入学と同時に芸能活動を休止していることはあまり知られていません。
進学先は東京都に位置する私立の共学校・玉川学園中等部です。
玉川学園は1924年創立の玉川大学の附属校として知られており、伸びやかな教育理念が特徴の学校です。
中等部の偏差値は46程度で、やや入りやすい水準の私立中学といえます。
「子役をやめなさい」というアドバイス
風間さんが子役活動を辞めたきっかけとなったのは、「本気で役者を目指すなら子役をやめなさい」というアドバイスでした。
ここ、気になりますよね。
当時の芸能界には、子役で売れすぎた俳優は大成しないというジンクスが広く信じられていました。
その言葉を真剣に受け止めた風間さんは、中学1年生の時に劇団を退団することを決断します。
ところがいざ劇団を辞めると、それまで引っ張りだこだった仕事が全くこなくなってしまいました。
事実上の芸能活動の完全休止です。
あれだけ売れていた子役が、一夜にして仕事ゼロの状態になるわけですから、当時の風間さんにとってはどれほど戸惑いの大きな出来事だったことでしょう。
普通の学生生活を送った中学時代
芸能活動を離れた風間さんは、中学・高校時代は普通の学生生活を送ることになります。
あれほど光り輝いていた子役としての日々が遠ざかり、一般の中学生として毎日を過ごす中で、風間さんの中に何かが変わっていったのかもしれません。
実際には、玉川学園の芸能界への理解ある校風が、後に演劇への情熱を再燃させる環境を整えてくれていたともいえます。
この「一度引いた時期」があったからこそ、後の本格的な俳優人生がより充実したものになったという見方もあるでしょう。
子役として圧倒的な存在感を放っていた少年が、一度立ち止まって学業に専念した中学時代は、俳優・風間杜夫という人物の底力を育てた時期だったといえるのではないでしょうか。
玉川学園高等部の演劇部部長|志垣太郎との青春時代
玉川学園高等部は、玉川学園中等部からそのまま進学した私立共学校で、現在の偏差値は58程度、「中の上」に相当します。
1924年開校という長い歴史を持ち、玉川大学の系列として知られるこの高校は、自由な校風と芸能活動への理解で多くの芸能人を輩出してきました。
その環境が、風間さんの演劇への情熱を再び呼び覚ますことになります。
演劇部部長として才能が再開花
高校時代、風間さんは演劇部に在籍し、部長を務めるまでに成長しました。
中学時代に一度封印した演劇への情熱が、高校の演劇部という場で再び燃え上がったのです。
そして風間さんが3年生で部長を務めていた時に入部してきたのが、後のアイドル的俳優・志垣太郎さんです。
志垣さんは風間さんの2学年後輩にあたります。
当時のエピソードについて、風間さんはインタビューで次のように振り返っています。
「僕が部長をしていた演劇部に1年生の彼が入って来たとき、『お前かわいい顔してるな。だけど顔で勝負する役者になるんじゃねえぞ』なんて言ったんですよ。だけど彼の方が先にスターになっちゃった(笑)。当時、アイドル並みの人気者でしたからね。」
まさか自分が忠告した後輩に先にスターになられるとは、思ってもみなかったでしょうね(笑)。
母親が雀荘を営み、アルバイトに明け暮れた日々
高校時代の風間さんの家庭環境も、ユニークなものがありました。
母親が雀荘を運営しており、高校時代には風間さん自身もアルバイトとして手伝っていたといいます。
人数が足りない時にはお客さんのために一緒に卓を囲むこともあり、麻雀の腕もどんどん上がっていったそうです。
演劇部で表現力を磨きながら、麻雀でコミュニケーション力を鍛えるという、なんともユニークな高校生活でした。
玉川学園高校が芸能活動を容認する校風だったことも、風間さんが演劇に集中できた大きな理由のひとつといえるでしょう。
高校時代の苦悩と早稲田大学進学への道のり
演劇部の部長として活躍する一方で、風間さんの高校時代には深い悩みもありました。
玉川学園は経済的に恵まれた家庭の子が多く通う私立校であり、クラスに馴染むことができずに苦しんでいたというのです。
裕福な同級生との摩擦が生んだ孤独感
父親は映画会社のセールスマンで、母親は雀荘を営む家庭です。
決して貧しくはないものの、クラスメートの中には非常に裕福な家庭で育った子が多く、生活水準の違いから浮いてしまうことがあったようです。
人間関係の悩みが積み重なり、失語症に近い状態になってしまったこともあると風間さんは告白しています。
あれだけ舞台の上では表現豊かに輝いていた少年が、日常の人間関係では深く傷ついていた——そのギャップが、後の風間さんの俳優としての深みにつながっているのかもしれません。
特に私立学校の校内文化に馴染めないという感覚は、思春期の少年にとってはかなりつらい経験だったでしょう。
親や教師の勧めで大学進学を決意
高校卒業後の進路について、風間さんは親や教師から「大学には行っておきなさい」と勧められていたといいます。
その声を素直に受け止めた風間さんは、演劇を専門的に学べる大学を目指して受験に挑みます。
目指した先が、日本を代表する名門・早稲田大学でした。
演劇の専修があること、そして自由で創造的な空気感が漂う早稲田の環境が、演劇への情熱を持つ風間さんにとって魅力的に映ったのでしょう。
この決断が、後に俳優・風間杜夫という存在を形作る重要な選択になっていきます。
高校時代の孤独や苦悩が、大学という新しい舞台で一気に開花する。そんな転換点が、まさにこの時期にあったといえます。
早稲田大学第二文学部演劇専修への進学と中退の経緯
風間杜夫さんが進学したのは、早稲田大学第二文学部の演劇専修です。
早稲田大学は偏差値65以上を誇る日本屈指の名門私立大学であり、その第二文学部は多彩な専修を持つことで知られていました。
演劇専修では、戯曲の分析から演出・演技まで幅広く学ぶカリキュラムが組まれており、本格的に演劇を学ぶ環境として申し分ないものでした。
演劇仲間と劇団「表現劇場」を結成
大学での生活は、風間さんにとってまさに水を得た魚のようなものでした。
志を同じくする仲間と出会い、演劇の世界にどんどん引き込まれていったのです。
そして22歳の時、大学の仲間たちと共に劇団「表現劇場」を結成します。
プロの劇団として活動を始めたことで、大学の学業との両立が難しくなっていきました。
最終的に風間さんは早稲田大学を中退する道を選びます。
大学での演劇研究よりも、実際の舞台での実践こそが自分に必要なものだという確信があったのでしょう。
「第二文学部」に進んだ意味
早稲田大学の第二文学部は、夜間部という位置づけを持つ学部でもありました。
日中に活動しながら学べるという特性が、芸能活動と学業を両立しようとする風間さんにとって現実的な選択肢だったと考えられます。
中退という結果になったとはいえ、早稲田大学での学びと人との出会いは、風間さんの演劇人としての基礎を確実に固めるものでした。
玉川学園から早稲田大学へという学歴の歩みは、一見すると遠回りに見えるかもしれません。
しかし子役としての感覚を磨いた少年期、演劇部で表現力を鍛えた高校時代、そして演劇専修で理論と実践を学んだ大学時代——それぞれが積み重なって、後の大俳優・風間杜夫という人物の礎を作り上げたのです。
風間杜夫の学歴と早稲田大学時代|俳優への転身
- 劇団「表現劇場」結成と俳優業への本格始動
- つかこうへい事務所での修業と演技力の成熟
- 蒲田行進曲での銀四郎役|大ブレイクのきっかけ
- スチュワーデス物語の村沢教官役と国民的人気
- 落語への挑戦と現在の俳優としての活躍
劇団「表現劇場」結成と俳優業への本格始動
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22歳で劇団「表現劇場」を結成した風間杜夫さんは、早稲田大学を中退し、俳優としての道を本格的に歩み始めます。
プロの俳優として最初に手がけたのは映画の世界でした。
1972年、日活ロマンポルノの映画『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役として銀幕デビューを果たします。
いきなり主役でのデビューとはならなかったものの、まずは小さな役から積み重ねていくという地道な姿勢が、後の大成につながっていきます。
テレビドラマへの進出と妻・訓子さんとの出会い
1974年には、大河ドラマ『勝海舟』で小栗忠順役を演じ、テレビドラマに初出演を果たします。
この年はプライベートでも大きな節目で、妻となる訓子さんと結婚しています。
まだ俳優として軌道に乗る前の時期であり、生活の多くを妻の収入に支えてもらっていたと風間さん自身が語っています。
訓子さんの支えがなければ、俳優を続けることは難しかったかもしれません。
また、結婚2年後には風間さんの父親が脳梗塞で倒れ、12年間にわたって訓子さんが介護を担当します。
その間も風間さんは俳優業に専念できたのは、ひとえに妻の献身的なサポートがあってのことでした。
初のレギュラー出演で自信をつかんだ1976年
1976年には、フジテレビのドラマ『娘たちの四季』で初のテレビドラマレギュラーを獲得します。
子役として東映映画の現場を経験していた風間さんにとって、テレビの世界は違う文化を持つ新しいフィールドでした。
しかし、持ち前の表現力と子役時代から磨いてきた演技の土台が、テレビの世界でも通用することを証明していきます。
劇団活動とテレビドラマを並行させながら、風間さんは少しずつ俳優としての認知度を高めていくのです。
つかこうへい事務所での修業と演技力の成熟
風間杜夫さんの俳優人生における転換点のひとつが、1977年のつかこうへい事務所への参加です。
1977年2月、つかこうへい事務所の舞台『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出演したことを皮切りに、以降はつかこうへいの演劇作品の主要キャストとして活躍するようになります。
つかこうへいという演出家が与えた衝撃
つかこうへいさんは、激しくエネルギッシュな演出スタイルで知られる、当時の日本演劇界において最も刺激的な存在のひとりでした。
つかこうへいの演出のもとで鍛えられた経験が、風間さんの演技の幅を大きく広げることになります。
肉体と感情を全開にする劇団のスタイルは、風間さんがそれまで積み上げてきた表現力をさらに高い次元へと引き上げました。
台詞の言い回し、間の取り方、身体表現——あらゆる面において、つかこうへいの薫陶を受けた時期は、俳優としての風間さんを根本から鍛え直す修業の場となりました。
舞台から映画・テレビへと活動が広がる
つかこうへい事務所での活動を通じて、風間さんの名前は演劇ファンの間で広く知られるようになります。
舞台での評判が映画プロデューサーや映像の世界に届くようになり、映画・テレビドラマへの出演機会も着実に増えていきます。
舞台での徹底した鍛錬があったからこそ、後の映画・テレビでの圧倒的な存在感につながっていったのです。
早稲田大学という学歴で得た演劇の理論的な土台と、つかこうへい事務所で磨いた実践的な演技力——この2つが合わさった時、風間杜夫という俳優は一気に輝きを増していきます。
学歴が育てた「考える俳優」としての側面と、つかこうへいが引き出した「全身で表現する俳優」としての側面が融合し、他にはない独自のスタイルが確立されていったのです。
蒲田行進曲での銀四郎役|大ブレイクのきっかけ
風間杜夫さんの名前を一般に広く知らしめたのが、1982年公開の映画『蒲田行進曲』への出演です。
監督は深作欣二さん、原作・脚本はつかこうへいさんという、当時の日本映画界が誇る最強のタッグが生んだ作品でした。
風間さんはこの映画で主役・銀四郎役を演じ、圧倒的な存在感で観客を魅了しました。
銀四郎役が評価された受賞歴
映画スターとして絶頂期にある銀四郎という役柄は、華やかさと残酷さを併せ持つ複雑なキャラクターです。
風間さんの熱演はスクリーン越しに観客の心を強くつかみ、映画公開と同時に「風間杜夫」という名前は全国区になりました。
この作品で風間さんは多数の映画賞を受賞します。
ブルーリボン賞をはじめとする数々の映画賞受賞は、俳優としての実力を公式に認められた証明でした。
子役時代に東映映画の現場で見てきた映像制作の世界が、今度は自分自身が主役として体現する舞台となったのです。
映画をきっかけに各分野での活躍が加速
蒲田行進曲の大ヒットは、風間さんのその後のキャリアに計り知れない影響を与えます。
映画での認知度が上がったことで、テレビドラマへのオファーも増加。声優としての仕事も広がっていきます。
蒲田行進曲は単なる出世作にとどまらず、演劇・映画・テレビ・声優とあらゆる表現の場で活躍する俳優・風間杜夫の幕開けを告げる作品だったといえるでしょう。
スチュワーデス物語の村沢教官役と国民的人気
映画『蒲田行進曲』でその名を広く知らしめた風間杜夫さんですが、テレビドラマの世界でもほぼ同時期に大きなブレイクを果たします。
1983年に放映されたフジテレビのドラマ『スチュワーデス物語』での村沢浩教官役です。
村沢浩教官役での存在感は視聴者の心をつかみ、ドラマは社会現象となるほどの大ヒットを記録しました。
「教官!」という呼び声が日本中に響いた
風間さんが演じた村沢教官は、厳しくも人間味あふれるキャラクターとして視聴者から絶大な支持を受けます。
堀ちえみさん演じる主人公・松本千秋の成長を支える教官という役柄は、当時の日本社会の「仕事への真剣さ」を体現するような存在でした。
番組の視聴率は高い水準をキープし続け、毎週のテレビ前に多くの視聴者が釘付けになりました。
映画での銀四郎役とテレビの村沢教官役——この2つのキャラクターが、1982〜83年という短期間に立て続けに大ヒットしたことで、風間杜夫さんは一躍「時代の顔」となっていきます。
テレビスターとしての確立
スチュワーデス物語の大成功以降、風間さんはテレビドラマ界においてもトップクラスの存在感を持つ俳優として確立されます。
大河ドラマ、民放の連続ドラマ、単発ドラマなど多彩なジャンルに出演し続け、現在に至るまで長期にわたって第一線で活躍しています。
子役として映画に目覚め、玉川学園の演劇部で演技を磨き、早稲田大学で演劇を学び、つかこうへいの舞台で鍛えられた——その全てが蒲田行進曲とスチュワーデス物語という形で結実したのです。
学歴を通じた学びが、見事に俳優人生の頂点へとつながっていきました。
落語への挑戦と現在の俳優としての活躍
蒲田行進曲やスチュワーデス物語で頂点を極めた後も、風間杜夫さんは常に新しい表現の世界に挑み続けています。
その象徴的な挑戦が、10年以上前から取り組んでいる落語への挑戦です。
俳優という職業では珍しく、落語という日本の伝統話芸に本格的に取り組む姿勢は、各方面から高い評価を受けています。
受賞歴と紫綬褒章受章の栄誉
風間杜夫さんのキャリアを彩る受賞歴は輝かしいものがあります。
文化庁芸術祭賞演劇部門大賞、読売演劇大賞最優秀男優賞など、日本演劇界の主要な賞を複数受賞しています。
そして2010年には、芸術・文化の分野での功績を称えられ、紫綬褒章を受章しました。
子役出身でありながら一度芸能活動を休止し、学業に専念した後に演劇の道で大成するというドラマチックな人生が、この栄誉に結実したといえるでしょう。
孫に囲まれた穏やかな現在の生活
プライベートでは、息子一家と同居しながら4人の孫に囲まれた穏やかな日々を送っています。
「孫の声が聞こえると鳥肌が立つほど嬉しい」と語るほど、孫の存在が大きな喜びとなっているようです。
俳優としての活動は現在も続いており、舞台・テレビドラマ・声優など幅広い分野で存在感を発揮しています。
大腸ポリープの手術(30個以上のポリープを発見・切除)を経験したことで、健康への意識も高まり、定期的な健康診断と適度な運動を習慣としているといいます。
玉川学園から早稲田大学という学歴を経て、つかこうへいの舞台で磨かれた演技力は、今も現役で輝き続けています。
学歴が育んだ知的な感受性と、長年の舞台経験が刻んだ肉体的な表現力——その両方を持ち合わせた俳優は、そうそういるものではありません。
風間杜夫さんの今後の活躍からも、目が離せない状況は続きそうです。
風間杜夫の学歴と俳優人生の総まとめポイント
- 風間杜夫さんの本名は住田知仁(すみたともひと)で1949年4月26日生まれ
- 出身は東京都世田谷区三軒茶屋、身長171cm、血液型O型
- 小学2年生の時に児童劇団「東童」に入団し子役としてデビュー
- 東映児童演劇研修所の一期生として選ばれ連続8本の映画に出演した
- 小学5年生の時は撮影のため10ヶ月間京都で暮らすほど売れっ子だった
- 出身中学は玉川学園中等部(偏差値46)、入学と同時に子役活動を休止
- 「本気で役者を目指すなら子役をやめなさい」というアドバイスを受けての決断だった
- 出身高校は玉川学園高等部(偏差値58)で演劇部の部長を務めた
- 志垣太郎さんは演劇部の2学年後輩にあたる
- 高校時代は裕福な同級生との摩擦で悩み、失語症に近い状態になった経験がある
- 早稲田大学第二文学部演劇専修に進学するも22歳で中退し劇団「表現劇場」を結成
- 1977年からはつかこうへい事務所の舞台に参加し演技力を大幅に高めた
- 1982年の映画「蒲田行進曲」で銀四郎役を演じブルーリボン賞など多数受賞
- 1983年の「スチュワーデス物語」村沢浩教官役でテレビでも国民的人気を獲得した
- 2010年に紫綬褒章を受章し、現在も落語への挑戦など新しい表現に取り組み続けている
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