※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。
たつき諒さんの顔写真について気になっている方は多いのではないでしょうか。
たつき諒さんは予知夢を題材にした漫画「私が見た未来」の作者として知られる元漫画家で、2025年に累計100万部を突破したことで再び大きな注目を集めています。
ところが、たつき諒さんの顔写真はほとんど公開されておらず、本人が描いた自画像のイラストのみが知られている状態です。
この記事では、たつき諒さんの顔写真が公開されていない理由から、プロフィール・予言の内容・現在の活動状況まで徹底的に整理しています。
記事のポイント
①:たつき諒さんの顔写真は非公開で、17歳の交通事故が「顔を出さない」理由のきっかけ
②:1954年12月2日生まれ・神奈川県横浜市出身で、2026年現在71歳
③:「私が見た未来 完全版」は累計100万部突破(2025年5月)、7月予言で注目
④:「7月5日に大災害」という予言を本人が否定し、2025年6月に軌道修正
たつき諒の顔写真がない理由とプロフィールを徹底調査
- 【結論】顔写真は非公開・自画像のみの理由
- 17歳の交通事故が人生を変えた経緯
- 20歳でデビューした漫画家としてのキャリア
- 1999年に44歳で引退するまでの作品歴
- 引退後の生活と社会福祉の仕事
- なりすまし問題と本物が名乗り出た経緯
【結論】顔写真は非公開・自画像のみの理由
この投稿をInstagramで見る
結論から言うと、たつき諒さんの顔写真は現在もほとんど公開されていません。
公に確認できるビジュアル情報は、たつき諒さん自身が描いた自画像のイラストのみとなっています。
顔写真が存在しない現状
たつき諒さんはデビューから一貫して「顔を出さない」スタンスを貫いており、テレビやメディアへの本人出演も基本的に行っていません。
マツコ・デラックスさんの番組で「私が見た未来 完全版」が紹介されたことがあるものの、その際もたつき諒さん本人は出演しておらず、顔写真が出回る機会は極めて限られています。
インターネット上で「たつき諒 顔写真」と検索すると、自画像イラストや、なりすまし時代に出回った別人の画像が表示されることがありますが、本人の実際の写真は確認されていません。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 実際の顔写真 | 非公開(本人が出ない方針) |
| 公開されているビジュアル | 本人が描いた自画像イラストのみ |
| テレビ出演 | ほぼなし(番組紹介はあるが本人不在) |
| 「顔を出さない」理由 | 17歳の交通事故がきっかけ |
「顔を出さずに済む仕事」を選んだ理由
たつき諒さんが顔を出さない仕事として漫画家を選んだ背景には、17歳のときに経験した交通事故があります。
高校生のときに交通事故に遭ったことで、「家で作業ができて、生きた証を残せ、顔を出さずに済む仕事」として漫画家を目指すことを決意したというエピソードが本人から語られています。
この決意は漫画家引退後も変わらず、現在に至るまで一貫した「顔出しをしない」スタンスを貫いています。
自画像イラストが「顔写真代わり」に
たつき諒さんの外見を知る唯一の情報源が、本人が描いた自画像イラストです。
作品の中や自伝などに掲載された自画像からは、おおよその雰囲気を感じ取ることができますが、実際の外見とどの程度近いかは分かりません。
「予言者」として注目を集める存在でありながら、その素顔が全く分からないという神秘性が、たつき諒さんへの関心をさらに高めている側面もあります。
なりすまし問題が生んだ「別人の顔写真」
2020〜2021年頃に発生したなりすまし問題で、偽のたつき諒を名乗る人物がSNSやメディアに出現し、その人物の画像が「たつき諒の顔写真」として出回ることになりました。
これはたつき諒さん本人とは無関係の偽情報であり、現在もネット上に残っている「たつき諒 顔写真」として出てくる画像の中には、このなりすましの画像が含まれている可能性があります。
顔写真を探している方は、現存する画像が本人のものでない可能性が高いという点に注意が必要です。
17歳の交通事故が人生を変えた経緯
たつき諒さんの人生に大きな転換点をもたらしたのが、17歳のときの交通事故です。
この体験がなければ、たつき諒さんが漫画家という職業を選ぶことはなかったかもしれません。
交通事故の詳細と影響
たつき諒さんは高校生時代に交通事故に遭い、その後遺症や精神的な影響から「外で働くことが難しくなった」とされています。
この経験から「家で作業ができて、生きた証を残せ、顔を出さずに済む仕事」という3つの条件を満たす職業として漫画家を志すことになったのです。
普通であれば学業に専念する高校生活が、事故によって全く異なる方向へ向かっていったことが、後の波乱の人生を形作ったといえます。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1954年12月2日 | 神奈川県横浜市で誕生(大正生まれの両親のもと、大家族の末っ子) |
| 17歳(高校生時代) | 交通事故に遭い、漫画家を志す決意 |
| 高校卒業後 | 漫画家アシスタントとして修行開始 |
| 20歳 | 「郷ひろみ物語」でデビュー |
大家族の末っ子として育った幼少期
たつき諒さんは1954年12月2日、神奈川県横浜市に生まれました。
大正生まれの両親のもと、大家族の末っ子として成長したという事実は、その後の人生観や物事への向き合い方にも影響を与えたと考えられます。
大家族の中で育まれた感受性が、後に予知夢という独特な体験を漫画として表現する素地になったのかもしれません。
アシスタント時代の修行と漫画技術の習得
漫画家を目指す決意をしたたつき諒さんは、高校卒業後に漫画家のアシスタントとして修行を開始しました。
アシスタント時代に絵の技術を磨き、20歳でのデビューへとつなげていった努力は、今考えると並大抵のものではなかったでしょう。
「漫画家になりたくてなったわけではない」とも語っており、交通事故という不本意な出来事がきっかけであったにもかかわらず、その後の人生を豊かにしていったことは興味深いエピソードです。
交通事故が「顔を出さない」スタンスを生んだ背景
17歳の交通事故以来、たつき諒さんが一貫して「顔を出さない」スタンスを維持してきた背景には、単純な「恥ずかしい」という感情だけでなく、事故後の自分の状況から生まれた実用的な判断があったと思われます。
「顔を出さずに済む仕事」という条件は、外出や人前に出ることへの心理的なハードルを背景に生まれたもので、それが40年以上一貫したスタンスとして続いてきたことになります。
この一貫性が、たつき諒さんという人物への「謎の多い予言者」というイメージをさらに強化しているともいえます。
20歳でデビューした漫画家としてのキャリア
たつき諒さんは高校卒業後のアシスタント修行を経て、20歳という若さで漫画家デビューを果たしました。
その後のキャリアを振り返ってみましょう。
デビュー作「郷ひろみ物語」とその反響
たつき諒さんのデビュー作は「郷ひろみ物語」で、20歳の時に発表されました。
当時の郷ひろみさんは若手アイドルとして絶大な人気を誇っており、そのファン向けの漫画作品でデビューを飾ったのは時代背景にも合致していました。
漫画家としてのスタート時点は「予言漫画家」ではなく、一般的なアイドル系の作品を手がけるごく普通の漫画家でした。
| 作品名・出来事 | 時期 | 内容 |
|---|---|---|
| 郷ひろみ物語 | 20歳(1974年頃) | デビュー作 |
| 数作品を発表 | 1974年〜1999年 | 一般的な漫画家として活動 |
| 私が見た未来 | 1999年(44歳) | 予知夢漫画・出版後即絶版 |
| 引退 | 1999年(44歳) | 漫画家として一旦引退 |
漫画家としての活動と作品数
たつき諒さんは1970年代から1990年代にかけて、複数の単行本を発表しながら漫画家として活動を続けました。
しかし「予言漫画家」として注目される前のたつき諒さんの作品は、現在ではほとんど知られておらず、「私が見た未来」以外の作品情報は限られています。
漫画家として20数年のキャリアを重ねてきたにもかかわらず、1冊の漫画によってその全てが塗り替えられる形で注目されたことは、波乱万丈な人生を象徴しています。
「予知夢」を題材にするようになった経緯
たつき諒さんが予知夢を題材にした漫画を描くようになった背景には、実際に夢で見た体験があります。
「自分が見た夢の内容が現実になる」という体験を積み重ねた結果、それを漫画という形で表現することを決意したとのことです。
当時は「予知夢漫画」という概念自体が珍しく、理解を得るのが難しかったため、1999年の「私が見た未来」は出版当初から全く売れず即絶版になるという結果に終わりました。
漫画への情熱と表現への思い
たつき諒さんは後の自伝「天使の遺言」の中で、「自分が納得できる内容を残したい」という強い思いを語っています。
商業主義的な出版の在り方に違和感を覚えながらも、自分の体験を誠実に記録・表現しようとするスタンスは、デビューから変わらない本質的な部分のようです。
1999年に44歳で引退するまでの作品歴
たつき諒さんは1999年、44歳で漫画家を一旦引退しました。
その作品歴と引退までの経緯を振り返ります。
「私が見た未来」の出版と即絶版
1999年に出版された「私が見た未来」は、たつき諒さんが実際に見た予知夢をもとに描いた作品です。
初版の表紙には「大災害は2011年3月」という記述があり、後に東日本大震災が実際に2011年3月に発生したことでSNSを通じて注目を集めました。
しかし1999年の出版当初は全く売れず、即絶版になるという厳しい評価を受けていました。
この作品が注目を集めるまでに12年以上かかったことは、時代がたつき諒さんの作品に追いついたともいえるかもしれません。
引退後の絶版本のプレミア化
2011年3月の東日本大震災以降、「私が見た未来」の初版本はネット上でプレミア価格がつくようになり、12万円以上の値段がつく希少品となりました。
すでに引退していたたつき諒さん本人が知らないところで、かつての作品が「伝説の予言漫画」として扱われるようになっていったのです。
引退後に突然注目を集めるという体験は、たつき諒さんにとっても予想外の出来事だったと思われます。
引退の決意と44歳という節目
たつき諒さんは1999年、44歳で漫画家を一旦引退することを決意しました。
「私が見た未来」の出版が引退と同年であることを考えると、最後の作品として予知夢漫画を世に送り出したという解釈もできます。
引退後は漫画家としての活動を休止し、全く異なる分野での生活を始めることになりました。
漫画家キャリアのまとめと評価
漫画家としての20数年のキャリアでは、「私が見た未来」以外の作品は一般的な知名度を持っていませんでした。
しかし「私が見た未来」という1冊の漫画が後に100万部を突破する社会現象を引き起こしたことで、たつき諒さんの名前は時代を超えて語り継がれることになりました。
引退後の生活と社会福祉の仕事
漫画家を引退したたつき諒さんは、その後どのような生活を送っていたのでしょうか。
引退後の様子を確認できる範囲で整理します。
福祉関係の仕事と家族の介助
漫画家引退後のたつき諒さんは、福祉関係の仕事をしながら家族の介助などに携わっていたことが伝えられています。
漫画の世界から一転して介護・福祉の現場で働くという生き方の変化は、たつき諒さんの人生観の柔軟さを示しているようです。
華やかな芸能・漫画の世界から距離を置き、静かに生活者として過ごした約20年間は、後に再び漫画家・作家として活動を再開する土台になったとも考えられます。
マツコの番組での紹介と本人不在
引退後のある時期、マツコ・デラックスさんの番組で「私が見た未来 完全版」が紹介されました。
番組でたつき諒さんの作品が取り上げられたことで知名度は上がりましたが、本人はその番組に出演しておらず、「共演」という表現が一部で広まったことへの誤解も生まれました。
マスメディアへの出演を基本的に拒否するスタンスは引退後も変わらず、本人の素顔は謎のままでした。
2011年の東日本大震災とSNSでの拡散
2011年3月11日の東日本大震災発生後、「私が見た未来」の表紙の「大災害は2011年3月」という記述がSNSで拡散され、たつき諒さんの名前が一気に注目を集めました。
当時すでに引退していたたつき諒さんは、ネット上での盛り上がりを知らなかったか、あるいは知っていても意識的に距離を置いていたとみられます。
この時点でも実際のたつき諒さんはメディアに出ることなく、予言漫画の「伝説」だけが独り歩きしていきました。
引退期間中の過ごし方と価値観
引退後の約20年間で、たつき諒さんは社会の中で静かに役割を果たしながら生活していたことが分かっています。
自伝「天使の遺言」の中で「これまで書けなかった体験なども含めて、家族のことや漫画家としてデビューする以前のことなど、自分が納得できる内容を残したい」と語っていることから、この期間に多くの体験と思索を重ねていたことが伺えます。
なりすまし問題と本物が名乗り出た経緯
たつき諒さんの顔写真を検索する際に注意が必要なのが、なりすまし問題です。
この経緯を詳しく確認しておきましょう。
2020〜2021年頃に出現したなりすまし
2020〜2021年頃、「たつき諒」を名乗る偽の人物がSNSやメディアに出現しました。
なりすまし男は「私が見た未来」の単行本カバーに描かれた「噴火した富士山」のカットについて「富士山は8月に噴火する」と勝手に虚言を広め、それが世間に拡散される事態になりました。
なりすましによる情報は全くの嘘であり、当時のたつき諒さんはその存在を全く知りませんでした。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 2020〜2021年頃 | なりすまし「たつき諒」がSNS・メディアに出現 |
| 2021年6月 | 本物のたつき諒が「復刊」予告に気づき出版社に連絡 |
| 2021年10月 | 「私が見た未来 完全版」が飛鳥新社から出版 |
| 2025年5月 | 累計100万部突破 |
| 2025年6月 | 自伝「天使の遺言」(文芸社)出版 |
本物が名乗り出た経緯
たつき諒さん本人は甥や姪の親戚からなりすましの存在を聞いて初めて知り、すぐに出版社へ連絡しました。
本人の弁によると「2021年6月、昔の単行本が『復刊』されるという予告を見て出版社へ連絡した」とのことで、出版社は急ピッチで「完全版」の作成を開始し、同年10月に「私が見た未来 完全版」が出版されました。
本人が名乗り出たことで偽者問題は解決しましたが、この「急ピッチ」の編集に対してたつき諒さん本人は「出版社の意向中心で出版されたことに不本意な思いもあった」と後に語っています。
なりすましの顔写真が「たつき諒の顔写真」として誤認される危険
この経緯から、インターネット上に残るたつき諒さんの「顔写真」の多くは、なりすましの人物の写真である可能性があります。
真のたつき諒さんの顔写真は存在しない(または極めて限られた情報しかない)という点を改めて確認しておく必要があります。
「たつき諒 顔写真」で出てくる画像を本人のものとして扱うことは、誤情報の拡散につながるリスクがあることを念頭に置いておきましょう。
たつき諒の顔写真と現在|予言漫画「私が見た未来」の真相
- 「私が見た未来」の予言内容と「7月5日」が独り歩きした経緯
- 「7月5日」発言を本人が否定した真相
- 完全版出版から100万部突破までの流れ
- 2025年6月の自伝「天使の遺言」と心境
- 現在の活動状況とメディア対応のスタンス
「私が見た未来」の予言内容と「7月5日」が独り歩きした経緯
たつき諒さんの名前が2025年に再び注目を集めた最大の理由は、「私が見た未来 完全版」に記された「2025年7月の大災害」予言です。
その内容と、「7月5日」という日付が独り歩きした経緯を整理します。
予言の内容と「完全版」での追記
1999年版「私が見た未来」の表紙には「大災害は2011年3月」という記述があり、これが後に東日本大震災の予言として注目されました。
2021年に出版された「完全版」では、「本当の大災難は2025年7月にやってくる」という新たな予言が追加され、フィリピン海での大規模な海底噴火が引き金となって東日本大震災の3倍もの高さの津波が押し寄せるという内容が記述されました。
| 予言内容 | 詳細 |
|---|---|
| 1999年版表紙の予言 | 「大災害は2011年3月」→東日本大震災と合致したとして話題に |
| 完全版(2021年)の追加予言 | 「本当の大災難は2025年7月」 |
| 予言された内容 | フィリピン海での海底噴火→東日本大震災の3倍の津波 |
| 「7月5日」という日付の出所 | あとがきで2021年7月5日に予知夢を見たと記述→読者が「当日」と解釈 |
「7月5日」という具体的な日付が独り歩きした理由
完全版のあとがきで「夢を見た日が現実化する日ならば、次にくる大災難の日は2025年7月5日ということになります」という記述があったことで、「7月5日に大災害が起きる」という情報がSNSで急速に拡散しました。
実際の記述は「この夢を見た日が2021年7月5日」というものであり、「7月5日が災害の起きる日」と直接断言したわけではありませんでしたが、読者の一部が「当日」として解釈したことが独り歩きの原因でした。
この情報は中国語版にも翻訳されて香港にも広まり、香港からの訪日観光客の減少にまで影響を与えたと報告されています。
SNSでの拡散と社会的影響
「2025年7月5日に日本で大地震が起こる」という情報は、SNSを通じて国内外に急速に広まりました。
気象庁の野村竜一長官は2025年6月の会見で「現在の科学的知見では、日時と場所、大きさを特定した地震予知は不可能。そのような予知の情報はデマと考えられる」と注意を呼びかけています。
書籍自体は話題の高まりを受けて電子版を含む累計106万部を突破するという皮肉な状況となり、東京都内の電車内での中吊り広告も目立つようになりました。
香港への影響と観光への打撃
「2025年7月の大災害予言」が香港でも広まったことで、日本路線の夏季欠航や減便が決定される事態になりました。
日本政府観光局の発表では、2025年5月の訪日客数は全体として過去最多を更新した一方で、国・地域別で香港だけが減少するという異例の状況が生まれました。
「7月5日」発言を本人が否定した真相
社会的な影響が大きくなっていく中、たつき諒さん本人が「軌道修正」とも受け取れる発言をしました。
その詳細と真相を整理します。
2025年6月の本人コメント
2025年6月24日、産経ニュースの取材に対してたつき諒さんは以下のコメントを寄せました。
「皆様が高い関心をお寄せいただいていることは、防災意識が高まっている証拠であり、前向きに捉えております」「この関心が安全対策や備えにつながることを願っております」という前向きなコメントとともに、「7月5日」については重要な発言をしました。
「過去の例から、こうなのではないか?と話したことが反映されたようで、急ピッチでの作業で慌てて書かれたようです」「夢を見た日=何かが起きる日というわけではないのです」として、「7月5日」という日付の特定を明確に否定したのです。
| たつき諒さんの発言 | 内容 |
|---|---|
| 「7月5日」についての否定 | 「夢を見た日=何かが起きる日というわけではない」 |
| 完全版の編集について | 「急ピッチでの作業で、出版社の意向中心で出版されたことに不本意な思いもあった」 |
| 防災への思い | 「防災意識が高まることを願っている」 |
「軌道修正」と受け取られた発言の意図
産経ニュースの見出しは「『7月5日に大災害』予言の作者『何かが起きる日ではない』と軌道修正」とされましたが、たつき諒さんの意図はあくまでも「誤解された情報の訂正」だったと考えられます。
本人は「7月の大災害」という予言自体は取り下げていないものの、「7月5日という具体的な日付」を否定することで、過剰な恐怖の拡散を防ごうとしたと解釈できます。
それでも「2025年7月に何かが起きるかもしれない」という不安はSNS上に残り続け、書籍の売れ行きはさらに伸びていきました。
気象庁のデマ認定と科学的見解
気象庁の長官は「現在の科学的知見では地震の日時・場所・大きさを特定した予知は不可能」「そのような予知の情報はデマと考えられる」と注意喚起しており、科学的な観点からは予言の根拠がないことが明確にされています。
ただし「日本ではいつどこでも地震が起こる可能性があることから、これを機に日頃から地震への備えを確認してほしい」という付記もあり、防災意識の向上という点では一定の社会的意義があるとも評価されています。
予言が果たした「防災啓発」の側面
たつき諒さん自身も「防災意識が高まることを願っている」と語っており、予言の真偽よりも「備えることの大切さ」を伝えることに軸足を置いていることが伝わります。
結果的に多くの人が防災グッズを購入したり避難経路を確認したりするきっかけになったとすれば、それはある意味で「顔を出さない予言漫画家」が社会に与えたポジティブな影響といえるかもしれません。
完全版出版から100万部突破までの流れ
「私が見た未来 完全版」がどのような経緯で100万部を達成したかを振り返ります。
2021年の完全版出版
2021年10月、なりすましに名乗り出た本物のたつき諒さんの監修のもとで「私が見た未来 完全版」(飛鳥新社)が出版されました。
急ピッチで制作されたため、本人には「出版社の意向中心で出版されたことへの不本意な思い」もあったといいますが、「完全版」は出版後に大きな話題を呼びました。
中国語繁体字版(台湾・香港・マカオ等)、韓国語版の2言語でも出版され、アジア各国への影響力を持つ作品になりました。
2025年5月・100万部突破
2025年5月、電子版を含む「私が見た未来 完全版」の累計発行部数が106万部を突破しました。
1999年の初版が即絶版になった作品が、26年後に100万部を超えるという奇跡のような展開は、予言の真偽にかかわらず出版史に残る珍しいケースといえます。
書籍への関心の高まりとともに、たつき諒さんの顔写真を求める検索も急増したことが想像されます。
マスメディアと書籍の相乗効果
テレビや週刊誌がたつき諒さんの予言を特集として取り上げるようになり、電車内の中吊り広告にも登場するなど、オールドメディアとSNSが連携した大規模な情報拡散が起きました。
「予言が当たるかどうか」よりも「予言を知らない人がいなくなる」状態になるほど広まり、2025年上半期の社会現象の一つとなりました。
なぜこれほど注目されたのか
たつき諒さんの予言漫画がこれほど注目を集めた背景には、東日本大震災の予言という「実績」と、顔の分からない謎の存在というミステリアスな要素の組み合わせがあります。
顔写真がないからこそ「どんな人なのか」への好奇心が高まり、それが検索数や書籍の売上につながるという皮肉な現象が生まれたともいえます。
2025年6月の自伝「天使の遺言」と心境
「私が見た未来」への注目が最高潮に達した2025年6月、たつき諒さんは自費出版による自伝「天使の遺言」を世に送り出しました。
自伝「天使の遺言」の出版
2025年6月15日、たつき諒さんは文芸社から「天使の遺言」を自費出版しました。
飛鳥新社の「完全版」が出版社主導の企画であったのに対し、「天使の遺言」は「自分が納得できる内容」「これまで書けなかった体験」を盛り込んだ完全に自分の意志による作品です。
| 作品 | 出版社・形式 | 出版年月 |
|---|---|---|
| 私が見た未来 | 1999年・絶版→プレミア化 | 1999年 |
| 私が見た未来 完全版 | 飛鳥新社・商業出版 | 2021年10月 |
| 天使の遺言 | 文芸社・自費出版・自伝 | 2025年6月15日 |
自伝に込められた思い
たつき諒さんは自伝出版にあたり「家族のことや漫画家としてデビューする以前のことなど、自分が納得できる内容を残したい」と語っています。
商業主義的な出版の在り方に違和感を持ちながらも、「顔を出さずに済む仕事」として漫画を選んだ原点に立ち返るような形で、自分の言葉で生涯を記録することを選んだのです。
自費出版という選択もまた、「自分が納得できることを自分のペースで行う」というたつき諒さんらしいスタンスの表れでしょう。
自伝の内容と明かされた体験
「天使の遺言」では、これまであまり語られてこなかった幼少期の話、交通事故のこと、家族のこと、漫画家デビュー以前の経験などが書かれているとのことです。
顔写真こそ公開されていないたつき諒さんですが、自伝という形で「内面の素顔」を見せようとしたとも解釈できます。
今後、この自伝を通じてたつき諒さんという人物像がより立体的に見えてくることが期待されます。
現在の活動状況とメディア対応のスタンス
たつき諒さんは現在、メディアへの対応をどのように行っているのでしょうか。
2026年5月現在の状況を整理します。
メディア取材を断り、コメントのみで対応
産経ニュースの記事によると、たつき諒さんは飛鳥新社を通じて取材を断った上でコメントのみを寄せたとのことです。
これはデビューから一貫した「顔を出さない・メディアに直接出ない」スタンスが今も変わっていないことを示しています。
70歳を超えた現在も、顔写真を公開せずプライバシーを守るスタンスを貫いているたつき諒さん。
この姿勢こそが「謎の予言漫画家」としての神秘的なイメージを維持させている要因の一つでもあります。
自伝出版後の活動
2025年6月の自伝出版以降、たつき諒さんがメディアに直接登場したという情報は確認されていません。
「天使の遺言」という自伝を通じて自分の生涯を記録するという形で活動を締めくくろうとしているのではないかとも推測されます。
「顔を出さない」という意志が71歳になった今も変わらず、その一貫性がある意味でたつき諒さんという人物の最大の特徴と言えるでしょう。
今後の予言と「2025年7月」以降
「2025年7月の大災害」という予言の時期が過ぎた後も、たつき諒さんへの関心が続くかどうかは注目されるところです。
予言が外れた場合でも、東日本大震災の予言という「実績」と、謎の多い人物像がファンを惹きつけ続ける可能性は十分あります。
たつき諒さんが今後新たな予言を発表するかどうか、または静かに生活を続けるのかは、現時点では分かりません。
「顔を出さない予言漫画家」として歴史に残るか
顔写真が一切分からないまま100万部を超えるベストセラーを生み出したたつき諒さんの存在は、出版史・芸能史的にも非常にユニークな事例といえます。
「顔を出さなくても影響力を持てる」という先駆的な生き方は、SNS時代の現代でも逆説的な示唆を与えてくれます。
ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報があれば今後もアップデートしていきます。
たつき諒の顔写真と予言の総まとめ
- たつき諒さんの顔写真は非公開で、17歳の交通事故がきっかけの「顔を出さない」スタンスによるもの
- 公開されているのは本人が描いた自画像イラストのみ
- ネット上に存在する「顔写真」の多くはなりすまし人物の写真の可能性がある
- 本名は竜樹諒(たつきりょう)、1954年12月2日生まれ・神奈川県横浜市出身
- 大正生まれの両親のもと、大家族の末っ子として育った
- 20歳でデビュー作「郷ひろみ物語」を発表した
- 1999年に44歳で漫画家を一旦引退し、福祉関係の仕事に転じた
- 代表作「私が見た未来」は1999年出版・即絶版→2011年の震災後に注目
- 2021年に「私が見た未来 完全版」を飛鳥新社から出版
- 完全版は2025年5月に累計106万部突破
- 「2025年7月5日に大災害」という情報が独り歩きし社会現象に
- 本人は「夢を見た日=何かが起きる日ではない」と7月5日の特定を否定
- 気象庁は予言について「デマと考えられる」と注意喚起
- 2025年6月に自伝「天使の遺言」を文芸社から自費出版
- 現在もメディアへの直接出演を断り、顔写真非公開のスタンスを維持している
▶️他の有名人の豆知識・その他が知りたい|カテゴリー・記事一覧

