森祇晶のハワイ移住は2022年に終了し帰国後の福岡での現在の暮らし

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森祇晶さんについて、ハワイでの暮らしぶりを知りたいと感じている方は多いはずです。

森さんは西武ライオンズで9年間に8回のリーグ優勝を達成した名将として知られています。

ただ、監督を退いた後にどこで暮らしていたのかは、意外と知られていません。

実際には2003年にアメリカの永住権を取得し、3人目の妻とともにハワイへ移住していました。

このハワイ生活は、2022年に妻の故郷・福岡県へ帰国したことで幕を閉じているそうです。

ハワイ時代には、教え子が自宅を訪ねてくるエピソードも残されています。

この記事では、森祇晶さんのハワイ移住から現在の暮らしまでを整理していきますね。

記事のポイント

①:2003年に永住権取得しハワイへ移住

②:フロント不信と屈辱的な出来事が原因

③:2022年に妻の故郷福岡へ帰国済み

④:2025年の始球式で元気な姿を披露

森祇晶がハワイに移住した理由|2003年の決断

  • 2003年にハワイへ永住権を取得
  • ハワイ移住を決めた3つの理由
  • 西武監督時代の2つの屈辱
  • 3人目の妻を守るためのハワイ
  • 教え子・清原和博がハワイへ

2003年にハワイへ永住権を取得

森祇晶さんがハワイに渡ったのは、2003年のことでした。

ここでは、森さんがどのような経歴を持つ人物で、どんな経緯でハワイへの永住権を取得したのかを整理していきます。

森祇晶の基本プロフィールと改名の経緯

まずは、森さんの基本情報を表で確認しておきましょう。

項目 内容
本名 森昌彦(もり まさひこ)
登録名 森祇晶(もり まさあき)
生年月日 1937年1月9日
2026年11月03日現在の年齢 89歳
出生地 大阪府豊中市
出身地 岐阜県岐阜市
身長体重 174cm・84kg
出身校 岐阜県立岐阜高校
現役期間 1955年〜1974年(読売ジャイアンツ)
監督歴 西武(1986〜94年)・横浜(2001〜02年)

本名は森昌彦さんですが、1986年に西武ライオンズの監督に就任した際、登録名を「森祇晶」に改名しているため、現在はこちらの名前で知られています。

現役時代は配球の緻密さや記憶力の高さから「V9の頭脳」と呼ばれていました。

通算成績は1884試合、1341安打、打率2割3分6厘、ベストナイン8回、正力賞は1986年と1990年の2回受賞しています。

オールスターゲームには11回出場しており、捕手として安定した人気も誇っていました。

巨人入団時の契約金は50万円、月給3万円という条件で、その月給の中から母親に仕送りを続けていたそうです。

これだけの実績を残した球界の重鎮が、なぜハワイで暮らすことになったのか、順番に見ていきますね。

2002年9月、質疑応答なしの電撃解任

森さんがハワイへ渡る直接のきっかけは、横浜ベイスターズ監督の解任でした。

2002年9月25日、森さんは横浜の監督を解任されていることが分かっています。

翌日に開かれた記者会見では、「今日限りでユニフォームを脱ぐことになりました」と述べるだけだったそうです。

質疑応答は一切なく、会見はわずか1分ほどで終えられたと伝えられています。

横浜では監督1年目に3位をキープしたものの、2年目の2002年は最下位に沈み、シーズン途中での解任となりました。

球界の重鎮らしい、静かで潔い引き際だったといえそうです。

2003年にアメリカ永住権を取得した決断

結論から言うと、森さんは解任の翌年である2003年に、アメリカ合衆国の永住権を取得しています。

そして、そのままハワイへ移住することを決断しました。

日刊スポーツの評論家としての活動には復帰したものの、評論の機会はごく少なかったと伝えられています。

2005年には野球殿堂入りという名誉を手にしていますが、このときすでに生活の拠点は日本ではなくハワイに移っていたことになります。

華やかな表彰の裏側で、本人の暮らしぶりは静かにハワイへ切り替わっていたわけですよね。

この決断からは、球界の喧騒から距離を置きたいという強い意志が感じられますよね。

次の章では、森さんがハワイを選んだ具体的な理由を見ていきます。

ハワイ移住を決めた3つの理由

結論から言うと、森さんがハワイを選んだ理由は、本人の言葉から3つに整理できます。

ここでは、その3つの理由をひとつずつ、背景も含めて見ていきますね。

理由①コーチが陰で見せていた裏切り

1つ目の理由は、西武監督時代に悩まされ続けたコーチとの関係です。

自分の前ではいい顔をするくせに、球団フロントには悪口を言って、自分を引きずり降ろそうとするコーチの存在に悩んでいたと森さんは明かしています。

表向きは従順に見える相手が、裏では別の顔を見せるという状況は、組織のトップとしてかなり精神的に堪えるものだったはずです。

9年間でリーグ優勝8回という圧倒的な結果を出していても、身内からの信頼が得られないという苦しさがあったことになります。

この経験が、森さんの中で「プロ野球界の人間関係」そのものへの疲れとして積もっていったと考えられますよ。

西武のフロント側は、観客動員数が伸びない原因を森さんの野球が「つまらない野球」だからだと判断していたとも伝えられています。

往年の名将・西本幸雄さんからも苦言を呈され、大沢啓二さんには「森の野球はバントばかりしてつまらない」とまで言われていたそうです。

理由②巨人監督話での長嶋支持への転身

2つ目の理由は、巨人の監督人事をめぐる人間関係の裏切りです。

「巨人の監督になるように尽力する」と言っていた関係者たちが、渡辺恒雄オーナーが長嶋茂雄さん支持を表明すると、一斉に自分を裏切って長嶋支持に回ったと森さんは振り返っています。

挙句の果てに、自分が悪者にされてしまったというのですから、その悔しさは相当なものだったでしょう。

森さんにとって巨人は現役時代を過ごした古巣であり、思い入れの強い球団だったはずです。

その古巣での人間関係にまで裏切られた経験は、森さんの心に深い影を落としたのかもしれません。

理由③横浜フロントの露骨な現場介入

3つ目の理由は、横浜ベイスターズ監督時代のフロントとの軋轢です。

横浜では就任当初、「すべて貴方に任せる」と言われていたにもかかわらず、チームの骨格もまだ固まっていないうちから、フロントが露骨に現場介入してきたそうです。

挙句の果てには、まだ森さんが在任中であるにもかかわらず、次期監督探しに奔走していたとも伝えられています。

任せると言われた仕事を、途中から取り上げられるような状況だったわけですよね。

西武監督時代は根本陸夫管理部長や坂井保之球団代表という有力なバックアップがあったからこそ、思い切った采配ができていたとも言われています。

横浜では、こうした信頼関係をフロントと築く時間もないまま、現場介入を受け続けることになったわけです。

この3つの理由が積み重なって、森さんは「プロ野球関係を一切断ち切って、静かな余生を送りたい」と考えるようになったといいます。

人間関係に疲れ切った末の決断だったことが、こうして振り返るとよく分かりますよ。

こうした人間関係の疲れは、のちにハワイでの静かな生活を選ぶ最大の動機になっていきました。

西武監督時代の2つの屈辱

森さんには、監督として圧倒的な結果を出しながらも、野球人として屈辱を味わった出来事が2つありました。

ここでは、その2つの屈辱的な出来事を具体的に見ていきます。

屈辱①宮沢りえ婚約発表に埋もれた日本一

1つ目は、1992年に起きた出来事です。

1992年10月、西武はヤクルトとの激闘を制して胸を張ったはずでした。

西武はヤクルトを破って6度目の日本一を獲得したにもかかわらず、スポーツ紙の1面を飾ったのは貴花田(貴乃花光司)さんと女優の宮沢りえさんの婚約発表だったそうです。

西武の日本一は、裏1面での扱いにとどまってしまいました。

日本一という最高の結果を出しても、世間の関心がまったく別の話題に向いてしまう現実を、森さんは目の前で突きつけられたことになります。

勝っても注目されないという経験は、相当なモチベーションの削がれ方だったはずですよね。

西武が達成した日本一の価値を思うと、この扱いの差は森さんにとって見過ごせないものだったはずです。

屈辱②東京ドームに流れた辞任速報

2つ目は、1994年に起きた出来事です。

巨人との日本シリーズ第6戦、試合前の東京ドームの電光掲示板に、「西武・森監督辞任」という読売新聞社のニュースが流れたというのです。

この時、森さんは西武球団に辞任の意思は伝えていたものの、まだ公表はしていませんでした。

敵地の電光掲示板で、自分の進退に関する情報を一方的に知らされるという、前代未聞の出来事だったことになります。

試合に臨む直前という最も集中すべき場面で、こうした情報を突きつけられる心境は想像を超えるものです。

皮肉なことに、この1994年は森さんが10月2日の近鉄戦でパ・リーグ史上初となる5年連続優勝を決めた、まさにその年でもありました。

前人未到の記録を打ち立てた直後に、自らの進退に関する情報を敵地で突きつけられるという巡り合わせだったわけです。

古巣・巨人への「信じられん」という怒り

この一件について、森さんは「信じられん。そこまでやるか」と、古巣・巨人の仕打ちに対して怒りに震えたと伝えられています。

西武球団が、宿敵であるにもかかわらず巨人(読売新聞)にこの話を漏らしたと考えられていることも、森さんの怒りを深くした一因のようです。

自分が長年戦ってきた相手に、身内の情報が流れていたという構図ですから、裏切られたという感覚はより強くなったはずです。

こうした扱いの数々が、のちに森さんがプロ野球関係を断ち切る決断を後押ししたことは間違いなさそうです。

結果を出せば出すほど、なぜか孤立感が深まっていくという構図が、この2つの屈辱からも見て取れますね。

前述の通り、森さんがハワイを選んだ理由の1つに「コーチや関係者の裏切り」がありましたが、この辞任報道の一件もまた、同じ系統の人間不信を深めた出来事だったといえそうです。

勝ち続けていても、こうした屈辱が重なっていけば、静かな場所で暮らしたいと思うのも無理はありませんよね。

3人目の妻を守るためのハワイ

森さんがプロ野球関係を断ち切りたいと考えた理由は、人間関係の疲れだけではありませんでした。

結論から言うと、もう一つの大きな動機として語られているのが、3人目の妻との生活を他人の目を気にせず送りたいという思いです。

ここでは、妻を守るという決断の背景を、森さんの人柄とともに見ていきます。

プロ野球関係を一切断ち切る決意

森さんは、西武・横浜での苦い経験を経て、プロ野球関係を一切断ち切って、静かな余生を送りたいと考えるようになったといいます。

これは単に日本を離れるという話ではなく、球界という狭い社会そのものから距離を置くという決断です。

そして、この決断と同時に語られているのが、3人目の妻との生活を他人の目を気にせず送りたいという思いでした。

森さんは結婚を3度、離婚を2度しており、ハワイへの永住を決めた時点ではすでに3人目の妻と暮らしていたと伝えられています。

人間関係への疲れと、妻を守りたいという思いが重なって、ハワイという選択肢が浮かび上がったわけですね。

家に野球を持ち込ませなかった素顔

森さんの家庭については、自宅に一切の野球談義を持ち込ませなかったという紹介がされていることがあります。

睡眠不足や胃痛に悩まされる日々の中で、家だけは完全に心が休まる空間として整えられていたという内容です。

妻は控えめでありながら芯が強く、常に夫の体調と精神面を第一に考える気配りの人だったとも紹介されています。

ただし、こうした家庭内の具体的な描写については公式な裏付けまでは確認できないため、そのまま断定的な事実として受け取るのは避けたいところです。

確かなのは、森さんが悔しいシーズンを過ごした後に、妻の希望で大きな行動を取ったという記録が残っていることです。

1989年、妻の希望で訪れた中国旅行

1989年、西武は0.5ゲーム差で優勝を逃すという悔しいシーズンを経験しています。

この年のあと、森さんは妻の希望で中国旅行に出かけていることが分かっています。

このとき洛陽で高僧と問答を交わし、「忍」という言葉を座右の銘として深めたとも伝えられています。

結果を出せなかった悔しさを抱えた夫を、旅という形で支えようとした妻の存在がうかがえるエピソードです。

この一点だけでも、妻が森さんの気持ちの切り替えに深く関わっていたことは十分に読み取れますよね。

選手が見ていた森祇晶の素顔

冷徹な管理野球の人という評価が強い森さんですが、選手の証言は少し印象が違います。

西武で選手会長を務めていた辻発彦さんは、「決して頭ごなしに何か言ったりはしない」と語っています。

当時流行っていたテトリスやゲームボーイを森さん自身が遊んでいて、「俺もやってみたけど、面白いな。やっぱり選手の気持ちになってみなきゃわからないな」と話していたそうです。

辻さんには「選手の中で不満が出ていないか」と相談することもあったといいます。

恩師の川上哲治さんは自著で「意の広岡、知の森、情の藤田」と分類し、森さんの知力を高く評価していました。

家庭でも同じように、相手の気持ちを読んで動くタイプの夫だったのかなと思いますよ。

教え子・清原和博がハワイへ

では、ハワイでの森さんの生活は、本当に誰からも干渉されないものだったのでしょうか。

実はそうではなく、ハワイの自宅まで訪ねてきた教え子がいました。

ここでは、そのエピソードと、そこから広がった清原和博さんをめぐる論争について見ていきます。

ハワイの自宅を訪ねた清原和博の相談

西武時代の教え子である清原和博さんが、ハワイにある森さんの自宅を訪ねて相談をしていたというエピソードが残っています。

これは清原さんが逮捕される5年ほど前のことだったと伝えられています。

連絡を受けた森さんが、自宅で清原さんの話を聞いたとされています。

遠く離れたハワイの家にまで教え子を迎え入れていたという点は、妻の理解があってこそ成立したことだと思いますよ。

静かな余生を送りたいと決めたはずの森さんが、それでも教え子のために時間を割いていたことになります。

アドバイス後に音信不通になった経緯

森さんは清原さんに、野球を勉強するようアドバイスしたそうです。

しかし、そのアドバイスのあと、清原さんから連絡はなく、音信不通になってしまったと伝えられています。

真面目だった清原さんが、なぜという気持ちにしかなれなかったと森さんは振り返っています。

2016年、清原さんは現役引退後に覚せい剤所持で逮捕されています。

ハワイで最後に会った教え子が、その後にこうした事態に陥ったことは、森さんにとっても大きな衝撃だったはずです。

清原和博を甘やかしたという論争の真相

清原さんの逮捕後、森さんの指導方針をめぐる論争が起きました。

野村克也さんや広岡達朗さんからは、森さんが清原さんを甘やかしたことが増長を招くきっかけになったと非難する声が上がったそうです。

これに対して、当時のチームメイトだった石毛宏典さんは、森さんが清原さんを甘やかしているとは思っていなかったと証言しています。

石毛さんによれば、清原さんを甘やかしていたのは、西武のオーナーだった堤義明さんの方だったとされています。

堤さんが清原さんを溺愛するあまり、試合での起用にまで口出ししていたという見方もあるようです。

入団当初から一軍で起用し続けた判断

清原さんは鳴り物入りで西武に入団し、当初は打率1割台に低迷していました。

それでも森さんは清原さんを一軍で起用し続け、ルーキー年で31本塁打を記録させていることが分かっています。

森さん自身は、優勝を優先するために清原さんを二軍スタートにしたかったという本音もあったようです。

堤オーナーのバックアップがあると知った後は態度を変え、自分が我慢して使ったと説明していたとも伝えられています。

毀誉褒貶の激しい人だったという評価が出てくるのも、こうした複雑な事情があったからなのかもしれません。

この判断ひとつにも、森さんの「したたか」とも評される采配の一端がうかがえます。

前述の通り、森さんがハワイに渡ったのは人間関係への疲れが理由でしたが、この清原さんをめぐる一件も、球界という狭い社会の難しさを物語るエピソードだといえそうです。

森祇晶のハワイ生活と現在|性格と評価

  • 19年間のハワイ生活と一時帰国
  • 2022年に妻の故郷・福岡へ
  • 野村克也との知将対決と性格
  • 張本勲の訃報に見る現在地
  • 2025年始球式で見せた現在

19年間のハワイ生活と一時帰国

森さんがハワイに渡ったのは2003年、そして帰国したのは2022年のことです。

単純に計算すると、19年にわたって海外で暮らしていたことになります。

ここでは、この19年間の暮らしと、その間に日本へ一時帰国した出来事を見ていきます。

2003年から19年続いたハワイでの暮らし

前述の通り、森さんは2003年にアメリカの永住権を取得し、そのままハワイに移住しました。

この生活は2022年まで、実に19年間にわたって続いていたことが分かっています。

日本球界との関わりをほぼ断っていたこの期間、森さんは静かに第二の人生を過ごしていたようです。

森さんは現役20年、監督・コーチとして計16年という長いユニフォーム生活を送ってきました。

それに対して、ハワイでの19年間は、球界から距離を置いた「もう一つの長い時間」だったことになります。

前述の通り、2005年の殿堂入りもこの19年間のうちの出来事でした。

ただ、完全に日本との縁を切ったわけではなく、少しずつ距離を縮めていく出来事もありました。

ここからは、その一時帰国の様子を具体的に見ていきますね。

2018年2月、宮崎OB戦で見せた来日

2018年2月10日、森さんは宮崎で行われた「巨人宮崎キャンプ60周年・ホークス球団創立80周年記念OB戦」に参加しています。

この来日のタイミングで、森さんはスポーツ報知の取材にも応じていたことが分かっています。

この取材では、当時13連敗を喫してBクラスに転落していた古巣・巨人の姿について、「ちょっとひどすぎるな」と厳しい指摘をしていました。

「投手だって決して悪くない。十分、勝てる戦力ですよ」と、現場への期待も口にしていたそうです。

このOB戦は、巨人の宮崎キャンプ60周年とホークス球団創立80周年を記念したもので、往年の名選手たちが集まる特別な機会でした。

ハワイで静かに暮らしながらも、古巣への思いは変わらず持ち続けていたことがうかがえます。

24年ぶりとなったメットライフドーム訪問

同じ2018年の7月20日には、森さんは「ライオンズ フェスティバルズ」の初戦ゲストとして登場しています。

始球式とトークショーに参加した際、このメットライフドーム来場は1994年の退任以来、実に24年ぶりのことだったと伝えられています。

前述の通り、森さんが西武の監督を退いたのは1994年のことですから、2018年の来場までには実に24年の時が流れていたことになります。

長いブランクを経てのホームグラウンド復帰は、森さんにとっても特別な意味を持つ出来事だったはずです。

日本との縁を完全に切ったわけではなく、ハワイに暮らしながらも折に触れて関係を結び直していたという流れが、ここから見えてきますよ。

こうした積み重ねが、のちの本格的な帰国につながっていったのかもしれません。

静かな隠遁生活と、節目ごとの顔出しを両立させていたバランス感覚も、森さんらしさのひとつだったといえそうです。

2022年に妻の故郷・福岡へ

結論から言うと、森さんは2022年に日本へ本帰国し、妻の出身地である福岡県に移り住んでいます。

この報道によって、3人目の妻が福岡県の出身だということが初めて明らかになりました。

ここでは、帰国先に福岡県が選ばれた理由と、その後の動きを見ていきます。

妻の出身地だった福岡県を選んだ理由

帰国先として福岡県が選ばれた理由は、3人目の妻の出身地だったからだと報じられています。

19年にわたるハワイ生活を終えて選んだ土地が、自分の故郷ではなく妻の故郷だったという点は、夫婦の関係をよく物語っていますよね。

名前も顔も公表されていない妻ですが、森さんの人生を動かす力を持っていたことが、この選択からも分かります。

海外生活から戻る土地を妻の故郷にするという判断は、夫としての優先順位がはっきり表れた選択だといえそうです。

19年ぶりに日本へ戻るという大きな決断の行き先を、自分の故郷ではなく妻の故郷にしたという事実は重みがあります。

森祇晶自身と福岡の意外に薄い接点

一方で、森さん自身と福岡県との個人的なつながりは、実はそれほど強くありません。

森さんは大阪府豊中市生まれで、岐阜県岐阜市育ちという出自を持っています。

現役時代の生活拠点は東京、監督時代は埼玉や神奈川でしたから、福岡にゆかりがあったわけではないのです。

つまり、福岡という土地を選んだ理由は、ほぼ妻の事情だけだったということになります。

だからこそ、福岡への移住は完全に妻のための選択だったと言えそうです。

下記の表は、森さんの住まいの変化を時系列にまとめたものです。

時期 住まいの動き
2002年9月 横浜ベイスターズの監督を解任される
2003年 アメリカの永住権を取得しハワイへ移住
2005年 ハワイ在住のまま野球殿堂入り
2018年 ハワイ在住のまま24年ぶりに西武本拠地へ
2022年 妻の出身地である福岡県へ本帰国
2023年 福岡在住のまま母校・岐阜高校を訪問
2025年 福岡在住のままベルーナドーム始球式に登場

表にしてみると、2022年の帰国が人生の大きな節目になっていることがよく分かりますね。

2023年、数十年ぶりの母校訪問

福岡に落ち着いた森さんは、2023年7月、数十年ぶりに母校・岐阜高校を訪ねています。

野球部の選手たちを激励し、「自分を信じて」といった言葉をかけたと伝えられています。

エースの選手については「いい投手」と評価していたそうです。

母校訪問の様子は地元メディアでも取り上げられ、往年の名捕手の健在ぶりが伝えられました。

ハワイから福岡へ戻ったことで、こうした地元密着の活動が可能になったという側面もありそうです。

岐阜高校は森さんが3年次の1954年に夏の甲子園へ出場した母校で、県内随一の進学校でもあります。

森さんは1995年に岐阜市民栄誉賞も受けており、ハワイ・福岡と住まいが変わっても、故郷との結びつきは途切れていなかったことになりますよ。

生まれ故郷・育った故郷・妻の故郷という3つの土地と、森さんがどう向き合ってきたかが、この帰国の経緯からもよく分かります。

野村克也との知将対決と性格

森さんはどんな性格の人物だったのでしょうか。

結論から言うと、「知将」という評価の裏に、したたかで計算高い一面を持った人物だったと評されています。

ここでは、好敵手・野村克也さんとの関係性を軸に、森さんの性格を見ていきます。

野村克也とのスパイ疑惑めぐる知将対決

1978年、ヤクルトが初の日本一に輝いたシリーズ開幕前の監督会議で、野村克也さんが森さん(当時は昌彦)に対して「西武にはスパイ疑惑がある」と指摘したことがあります。

当時ヘッドコーチとして同席していた丸山清光さんによれば、これは野村さんならではの陽動作戦で、相手を牽制する意味があったとみられています。

森さんがヤクルトにいた頃は、こうしたスパイ行為を一番気にしていたのが森さん自身だったというエピソードも残っています。

森さん自ら広島市民球場のスコアボードの裏側まで確認に行ったことがあったというのですから、その警戒心の強さがうかがえます。

野村さんと森さんは、ともに捕手出身で「知将対決」と呼ばれた好敵手でした。

1992年の日本シリーズでは、2年連続となる野村ヤクルトとの対戦が実現しています。

森さん自身も、この対戦について「やり甲斐があり楽しかった」と振り返っていたと伝えられています。

したたか・腹黒いと評された性格の正体

丸山さんは、野村さんと森さんの違いについて、「野村さんは素直な性格だけど、森さんはしたたか」と語っています。

森さんは「こう話せば、相手はこう反応する」ということを、すべて計算ずくで話していたというのです。

人間的に言えば、野村さんは「素直」で、森さんは「腹黒い」というか「したたか」だったと、丸山さんは振り返っています。

この評価は、森さんが人をうまく使う監督だったことの裏返しでもあるようです。

恩師の川上哲治さんも「意の広岡、知の森、情の藤田」と分類し、森さんの知力の高さを評価していたことが分かっています。

肯定的評価と否定的評価を対比で整理

森さんへの評価は、肯定的な声と否定的な声の両方があります。

下記の表は、森さんに関する評価を対比でまとめたものです。

肯定的な評価 否定的な評価
日本シリーズ通算24回出場、20回連続日本一という前人未到の記録 長嶋茂雄さんから終生嫌われ、コーチに招かれなかった
師匠・川上哲治さんに次ぐ実績を持つ名将 コーチ時代は「CIAやKGB」と評されるほど嫌われていた
「森はV9の陰のMVP」と川上さんが称賛 広岡達朗さんから「指導することができない」と指摘
近年の名将・落合博満さんや野村さんでも及ばない連覇実績 投手が打たれてもサインを出した責任を認めなかった

選手の運用には長けていたが、選手育成には向いていなかったという評価が、こうして見ると浮かび上がってきますよね。

「したたか」という性格そのものが、圧倒的な勝率と、周囲からの反感を同時に生み出していたのかもしれません。

「したたか」という一言に、名将としての凄みと、嫌われた理由の両方が詰まっているのかもしれません。

張本勲の訃報に見る現在地

2026年、森さんの現在の居場所を考えるうえで欠かせない出来事がありました。

結論から言うと、長年付き合いのあった野球人の訃報へのコメントから、森さんが今どこで暮らしているのかが垣間見えています。

ここでは、その2つの訃報と、森さんが寄せた言葉を見ていきます。

2026年9月、張本勲の死去に寄せた言葉

2026年9月9日、「安打製造機」として知られた張本勲さんが86歳で亡くなりました。

この訃報を受けて、元西武監督の森さんはこうコメントを寄せています。

「そんなに悪かったのですか。彼は韓国でも大人気で、一緒に訪れた時はどこに行っても大歓迎されたのを覚えています。グラウンドで会えば必ず野球談議をしたし、私が生活していたハワイでも会っていました。急なことで寂しい限りです。ご冥福をお祈りします」。

「生活していた」という過去形の表現からも、現在の森さんの生活拠点がすでにハワイではないことが読み取れます。

前述の通り、森さんは2022年に福岡へ本帰国していますから、この発言はその事実と自然に一致しているわけですね。

この一言は、森さんが今も野球界の仲間たちとの縁を大切にしていることを示す、何気ないながらも重みのある発言でした。

2026年6月、長嶋茂雄の死去と明かした本当の仲

2026年6月3日には、長嶋茂雄さんが89歳で亡くなっています。

これを受けて、森さんは「文藝春秋」の取材で、長嶋さんとの本当の関係を初めて明かしたと伝えられています。

「長嶋さんは1歳上だけど、僕のほうが先にプロ入りしていたので、“シゲやん”と呼んでいました」と振り返っているそうです。

1974年に2人は同時に引退し、1994年には監督として日本シリーズで対決、さらに1998年には長嶋さん解任後に森さんの巨人監督就任案が進んでいた時期もあったといいます。

世間では「森は長嶋監督の下でやりたくなかった」と邪推されていましたが、森さんは「そういう意識は全然なかった」とはっきり否定しているそうです。

この文春への告白は、文藝春秋8月号および「文藝春秋PLUS」に掲載された「長嶋茂雄 33人の証言」という企画の一つとして語られたものです。

現在も続く野球界との深いつながり

森さんは、野村克也さんとも60年以上のつき合いがあったと伝えられています。

野村さんが亡くなった際には、「唯一無二の好敵手へ」という追悼の言葉を寄せています。

歌手の谷村新司さんとも生前親交が深かったとされ、球界に限らず幅広い人脈を持ち続けていたようです。

福岡で静かに暮らしながらも、同世代の訃報に際してはその都度コメントを寄せていることから、現在も現役時代の仲間たちとの縁は切れていないことが分かります。

2026年11月03日現在の年齢は89歳ですが、こうして言葉を発信し続けている姿には頭が下がりますよね。

V9世代の証言がこうして少しずつ語られていくこと自体、球史における貴重な記録になっているといえそうです。

2025年始球式で見せた現在

最後に、森祇晶さんの現在の様子を確認しておきましょう。

結論から言うと、森さんは福岡県に住みながら、2025年4月18日にベルーナドームの始球式へ元気な姿で登場しています。

ここでは、この始球式での出来事と、現在のチームへの思いを見ていきます。

2025年4月、ベルーナドームの始球式

2025年4月18日、西武対ソフトバンク戦の試合前、森さんはライオンズ75周年を記念したセレモニアルピッチに登場したことが分かっています。

一緒に並んだのは、石毛宏典さん、辻発彦さん、鹿取義隆さんという西武黄金期の中心メンバーでした。

4人同時に投球するという演出で、森さんが投じたボールはツーバウンドしながら西口文也監督のミットに収まったそうです。

2026年11月03日現在、森さんは89歳ですが、足取りは軽やかだったと伝えられています。

西口文也監督も、かつての名将たちを笑顔で迎え入れていたそうです。

森さんの在任時、本拠地はまだ屋根のない西武ライオンズ球場という屋外球場でした。

「夢のようです」という言葉に込めた思い

森さんは球場の変化について、「球場の様変わりが凄いね。屋根もそうだし、スタンドも至れり尽くせり」と感慨深げに語っています。

会見の締めくくりでは、穏やかな笑顔を浮かべてこう言葉を残しました。

「まさかこういう場に呼んでもらえるとは思わなかった。夢のようです」。

フロントとの確執で西武を去った森さんが、球団の75周年という節目に主役として迎えられたという事実には重みがあります。

かつて東京ドームの電光掲示板で辞任報道を知らされた人が、同じ球界で和解のような瞬間を迎えたことになりますね。

電光掲示板で辞任を知らされた球団から、晴れの舞台に招かれるまでには、実に31年の時が流れていたことになります。

長く現場を離れていた森さんにとって、現役世代の監督からこうして迎えられたことは感慨深い出来事だったはずです。

現役チームへの苦言と福岡での日々

この日の会見で、森さんは現役選手へ苦言も呈しています。

整った球場に触れたうえで、「それにふさわしいゲームをしなきゃダメだよね」「やっぱり成績は気になるよ」と語ったそうです。

続けて「今の西武にも、こういうベテランがいるといい」「古い選手が若者に好かれようとするチームは弱いよ」とも述べています。

一方で「今のチームにも伝えていきたいけれど、環境が違うわな」と苦笑も見せており、自分のやり方を押しつけるつもりはないという冷静な距離感もうかがえます。

長年かけて積み重ねた経験から出る言葉だけに、現場の若手にも重みを持って響いたのではないでしょうか。

福岡での生活の詳細は公表されていませんが、妻とともに静かに暮らしながら、今後も折に触れて球界へ言葉を届けてくれることが期待されますよ。

ハワイから福岡へ、そして始球式のマウンドへと、森さんの晩年の歩みは静かに、しかし確かに続いているようです。

森祇晶のハワイ移住と現在のまとめ

  • 森祇晶は横浜監督解任の2003年にハワイへ移住した
  • 移住の理由の一つはコーチによる裏切りだったとされる
  • 巨人監督人事をめぐる長嶋支持への転身も理由の一つだ
  • 横浜フロントによる露骨な現場介入も移住を後押しした
  • 1992年は日本一なのに裏1面という屈辱を味わった
  • 1994年には東京ドームで自身の辞任速報を知らされた
  • ハワイ移住は3人目の妻との生活を守るためでもあった
  • 教え子の清原和博がハワイの森家を訪ねて相談していた
  • 森祇晶のハワイ生活は19年間の長期にわたって続いた
  • 2022年にはハワイを離れ妻の故郷・福岡県へ帰国した
  • 森祇晶の性格は野村克也いわくしたたかだったとされる
  • 張本勲の訃報コメントで過去形のハワイ生活を明かした
  • 長嶋茂雄の死去を受け2人の本当の仲を初めて明かした
  • 2025年にはベルーナドームの始球式に元気な姿で登場した
  • 現在は福岡県内で妻とともに穏やかな日々を送っている

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