外木場義郎の孫は2人|娘婿の正体や現在の家族構成を調査

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。

外木場義郎さんに孫がいるのか、気になって検索した方は多いはずです。

外木場さんは完全試合を含むノーヒットノーラン3度という史上唯一の記録を持つ、広島東洋カープの名投手です。

公表されている情報によると、外木場さんには娘が2人、そして孫2人にも恵まれていることが分かっています。

ただし孫の名前や年齢、性別については、現時点で明らかにされていません。

81歳になった現在、外木場さんは育成塾で若手投手たちを孫のような世代として指導しているそうです。

この記事では、孫につながる娘2人や娘婿の情報、そして妻・宣子さんとの家族の歩みを、信頼できる報道をもとに整理していきます。

記事のポイント

①:孫は2人、性別や名前は非公表

②:娘婿は共栄火災の支店長

③:娘2人は1973年・1976年生まれ

④:妻・宣子さんは登板日に寺参り

外木場義郎の孫2人|家族3世代の今

  • 孫2人に恵まれた外木場家の今
  • 娘2人の誕生|1973年と1976年の家族
  • 娘婿・坂倉誠の正体|保険会社支店長
  • 抱っこできなかった下の娘への悔い
  • 妻・宣子が築いた家庭と祈願の日々

孫2人に恵まれた外木場家の今

外木場義郎さんに孫がいるのかどうか、気になってこの記事を開いた方は多いはずです。

結論から言うと、外木場さんには孫が2人いることが分かっています。

ここでは、孫の存在がどのように語られてきたのか、そして何が分かっていて何が分かっていないのかを、信頼できる報道をもとに整理していきます。

孫の存在が確認できる唯一の情報源

外木場さんの孫について公になったのは、南日本新聞が組んだ連載「出水が生んだ剛腕 外木場義郎物語」が初めてでした。

この連載は、鹿児島県出水市出身で通算131勝を挙げたエースが、自らの野球人生を振り返るという企画でした。

2026年1月から全8回にわたって掲載されたこの連載の最終回で、本人が家族を振り返る中で「孫2人にも恵まれた」と語っているのです。

孫についての一文は、妻や娘2人の話の直後、記事の締めくくりに近い部分に置かれていました。

週刊誌の推測記事やSNSの噂ではなく、本人取材に基づく新聞連載だけが出典になっている点は押さえておきたいポイントです。

新聞社による取材という点でも、週刊誌の匿名証言とは一線を画す情報源だといえます。

中国新聞が組んだ全17回の連載「生きて・広島東洋カープ元投手 外木場義郎さん」にも、孫についての直接的な記述は見当たりません。

つまり孫に関する確かな情報源は、現時点でこの南日本新聞の一文だけということになります。

全8回という連載の規模からも、本人の野球人生がいかに長く濃いものだったかが伝わってきます。

その締めくくりで家族のことが語られたからこそ、この一文には重みがあります。

孫について分かっていること・分かっていないこと

下記の表は、孫について現時点で判明している範囲を整理したものです。

項目 分かっていること
人数 2人
性別 非公表
名前 非公表
年齢 非公表
野球経験 非公表
親(外木場さんの娘・娘婿) 娘2人のうち1人は坂倉誠さんと結婚

人数以外のほぼすべての項目が非公表になっていることが、この表からも分かります。

一般家庭として生活している孫たちの個人情報を、本人が無理に公表していないという姿勢がうかがえます。

これは同じ南日本新聞の連載で明らかになった、妻・宣子さんや娘2人の情報公開レベルとも共通しています。

名前や生年月日こそ伏せられていますが、「孫がいる」という事実そのものは本人が自ら語った確定情報です。

噂やSNSの推測で膨らませるのではなく、分かっている事実とそうでない事実を分けて考えることが、この話題と向き合う上で欠かせません。

読者としては、人数という一点だけでも公式な情報として得られたことを、まずは押さえておきたいところです。

非公表の項目が多いことは、裏を返せば一般家庭としての静かな生活が守られている証ともいえます。

外木場さんの性格を考えると、聞かれない限り自分から多くを語らないタイプだとも考えられます。

そうした人柄も、孫に関する情報が少ない理由の一つといえそうです。

娘2人の年齢から推測できる孫世代の年齢層

前述の通り、外木場さんの娘2人は1973年と1976年の生まれです。

2026年11月03日現在の年齢で計算すると、上の娘は53歳ごろ、下の娘は50歳ごろになります。

一般的な結婚や出産の年齢を踏まえると、孫たちはすでに成人している可能性が高いと考えられます。

娘婿の坂倉誠さんが報道時点で56歳と紹介されていたことからも、家族が三世代にわたって年齢を重ねてきたことが分かります。

もちろんこれはあくまで推測であり、孫の実際の年齢が公表されているわけではありません。

仮に娘たちが20代から30代で出産していたとすると、孫世代はすでに20代から40代に達している可能性があります。

孫がすでに社会人として働いていたり、結婚していたりする年齢層である可能性も十分に考えられます。

坂倉誠さんと結婚した娘の子供であれば、父親である坂倉さんの年齢からも成人している可能性が高いと推測できます。

一方で、もう一人の娘が何歳で結婚し、何歳で子供を持ったのかは一切公表されていません。

あくまで一般的な年齢分布から逆算した推測であり、断定的な情報ではないことを前提に読んでいただければと思います。

なぜ孫の詳細情報がここまで少ないのか

外木場さんが現役だった1960年代から1970年代は、選手の家族が取材対象になる文化がほとんどありませんでした。

本人がインタビューで家族を語るときも、「女房」「娘」といった呼び方にとどまり、具体的な素性に触れることはありませんでした。

孫の世代についても、同じ方針が引き継がれていると見るのが自然でしょう。

娘2人が一般人として生活している以上、孫もまた一般人としての生活を送っているとみられます。

有名人の孫というだけで注目されやすい時代だからこそ、あえて語らないという選択をしているのかもしれません。

外木場さんが現役だった時代のプロ野球選手には、家庭を語らないことが一種の美学とされていた面もあります。

実際、南日本新聞や中国新聞の長期連載という大規模な企画でなければ、妻や娘の名前すら表に出なかったはずです。

本人が80代になってようやく口を開いたという経緯そのものが、昭和世代の価値観を物語っています。

令和の時代とは異なり、SNSで家族を発信する文化に馴染みがない世代であることも関係しているでしょう。

孫たちがどのような生活を送っているのかは分かりませんが、静かな環境が守られているとポジティブに捉えることもできそうです。

今後孫の情報が公表される可能性

外木場さんは現在も野球教室や講演の場に立ち続けており、今後も自身の人生を語る機会は増えそうです。

80代に入ってから初めて妻や娘の存在が明かされた経緯を踏まえると、孫についても将来語られる可能性は十分にあるといえます。

2026年9月にはBSフジ「プロ野球レジェン堂」に出演するなど、メディアに登場する機会も増えています。

こうした番組出演がきっかけとなり、家族についてさらに踏み込んだ質問を受ける場面が出てくることも考えられます。

妻・宣子さんの名前が明らかになったのも、本人が野球人生を振り返る連載がきっかけでした。

同じように、今後出水市や広島のメディアが外木場さんの”現在”を取材する企画があれば、孫との関わりが語られる可能性もあります。

野球殿堂博物館や地元自治体との関わりが続いていることも、新しい情報が出るきっかけになり得ます。

孫が成長して独立した後であれば、本人が安心して話せる話題になっていくのかもしれません。

いずれにしても、現時点では人数以外の情報を無理に推測せず、公表された事実だけを受け止めておくのが適切でしょう。

ここ、気になるポイントだと思うので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきますね。

娘2人の誕生|1973年と1976年の家族

1973年と1976年、外木場家には2人の娘が誕生しました。

この2人こそ、のちに外木場さんを孫2人の祖父にする存在です。

ここでは家族構成を整理しながら、娘たちが生まれた当時の外木場さんの野球人生も合わせて見ていきます。

外木場家の家族構成を表で確認

下記の表は、南日本新聞の連載などから分かる外木場家の家族構成をまとめたものです。

続柄 人物 備考
本人 外木場義郎 1945年6月1日生まれ
妻 宣子 登板日ごとに寺へ参っていた
長女 非公表 1973年誕生
次女 非公表 1976年誕生
娘の夫 坂倉誠 共栄火災海上保険の中国支店長
孫 2人 性別・名前は非公表

娘2人の名前や顔写真は一切公表されていないため、一般人として生活しているとみられます。

3歳違いの姉妹で、どちらも広島で育った可能性が高いですね。

表にすると一目で分かるとおり、妻と2人の娘、そして娘婿と孫という3世代が外木場家を形作っています。

本人以外の家族については、名前が分かっているのは妻・宣子さんと娘婿・坂倉誠さんの2人だけです。

娘2人と孫2人については、性別も名前も一切公表されていません。

昭和から平成、令和へと時代が移る中で、家族の在り方そのものは大きく変わらず静かに続いてきたとみられます。

この家族構成が公になったのも、本人が80代を迎えてから振り返った連載がきっかけでした。

長く表に出てこなかった分、この一覧表に込められた情報の価値は小さくありません。

下記では、娘2人が誕生した当時の外木場さんの野球人生を、年ごとに詳しく見ていきます。

長女誕生の1973年、エースとして投げ抜いた年

長女が誕生した1973年、外木場さんはプロ入り9年目を迎えていました。

この年は44試合に登板し31試合に先発、12勝19敗、防御率2.64という内容を残しています。

前年の1972年4月29日には巨人戦で3度目のノーヒットノーランを達成しており、球界で最も名前が知られていた時期と家庭の慶事が重なった一年でした。

年間249回を投げながら、家庭では初めての子供を迎えるという忙しさだったはずです。

この頃から妻・宣子さんの生活は、夫の勝敗と育児の両方に気を配るものへと変わっていきました。

この年のチーム成績は3位で、優勝争いからは一歩後退した形でした。

それでも外木場さん個人は先発の中心として、シーズンを通してローテーションを守り続けた存在でした。

長女誕生の知らせを聞いたときの本人のコメントは残されていませんが、野球人生の真っただ中での慶事だったことは間違いありません。

当時の広島はまだ「弱小球団」というイメージが根強く、エースへの負担は年々増していく時期でもありました。

そうした状況の中で、家庭では新しい命を迎えるという、公私ともに慌ただしい一年だったはずです。

この時期の忙しさが、のちに「女房は大変だったと思う」という言葉につながっていったのかもしれません。

次女誕生の1976年、肩の異変と重なった年

次女が誕生した1976年は、外木場家にとって試練の年でもありました。

開幕前の12球団トーナメントで右肩の肩板を損傷し、投手人生が下り坂に入った年と重なっているのです。

痛みを抱えながら25試合に登板し10勝5敗、投球回は144.1回まで落ち込んだというシーズンでした。

前年の287回からほぼ半減したことを考えると、本人の焦りは相当だったと想像できます。

新しい命を迎えた喜びと、肩の限界が見えてきた不安が同じ年に訪れたという巡り合わせでした。

振り返れば、家族にとっても忘れられない試練の一年だったといえるでしょう。

この年の広島は3位という成績で、前年の初優勝から一歩後退する結果になりました。

エースの戦線離脱が、チーム成績にも影響を与えた可能性があるシーズンだったといえます。

肩の治療のために東京や大阪、福岡の病院を回る生活は、家庭にとっても大きな負担になったはずです。

遠征と治療という二重の移動が重なる中、妻・宣子さんが一人で育児と家庭を支えていたことになります。

新しい家族を迎える喜びの中にも、先の見えない不安が入り混じっていた一年だったと想像できます。

この年の経験が、本人にとって最も苦しいシーズンの一つとして記憶されているようです。

3歳差の姉妹が歩んだ非公表の人生

長女と次女は3歳差の姉妹として育ちました。

どちらも名前や職業、結婚相手については大部分が非公表のままです。

分かっているのは、どちらかの娘が共栄火災海上保険の中国支店長・坂倉誠さんと結婚しているということだけです。

一般家庭として静かに生活を送ってきたとみられる2人の姉妹は、やがて外木場さんを祖父にする存在になりました。

前述の通り、現在で長女は53歳ごろ、次女は50歳ごろと推定されます。

外木場さん自身も、娘たちの学校や職業について公の場で語ったことはないとみられます。

プロ野球選手の子供というだけで注目を集めやすい立場であるにもかかわらず、2人とも静かな生活を守り続けてきたことがうかがえます。

芸能界やスポーツ界に進んだという情報もなく、一般的な家庭を築いているとみるのが自然でしょう。

父親が野球殿堂入りするという大きな節目でも、娘たちの名前や顔が大きく報じられることはありませんでした。

こうした一貫した非公表の姿勢こそが、外木場家らしい家族の守り方だといえるのかもしれません。

娘たちが選んだ静かな生活は、結果的に孫たちの暮らしも守ることにつながっています。

娘婿・坂倉誠の正体|保険会社支店長

中国新聞のインタビュー連載「こんにちは支店長です」に、外木場家とつながる人物が登場しています。

その人物が、娘の夫にあたる坂倉誠さんです。

ここでは、義理の息子にあたる坂倉さんの情報を整理しながら、外木場家の現在のつながりを確認していきます。

坂倉誠という人物の基本情報

下記の表は、中国新聞の報道から確認できる坂倉誠さんの情報をまとめたものです。

項目 内容
氏名 坂倉誠
勤務先 共栄火災海上保険
役職 中国支店長
就任時期 4月に中国支店長へ就任
報道時点の年齢 56歳
統括範囲 中国5県10カ所の営業拠点
外木場義郎との関係 妻の父が外木場義郎

個人や事業者向けに自動車保険や旅行保険、労災事故に関する保険を扱う立場で、中国地方の営業網をまとめる責任者です。

この情報は、中国新聞が地域の企業人を紹介する連載「こんにちは支店長です」で取り上げられた際に明らかになったものです。

同じ連載では、大和ハウス工業や三井住友海上火災保険、NECといった企業の支店長や支社長も紹介されています。

地域経済を支える企業人の一人として、ごく普通に紹介された記事だったという点が重要です。

有名人の家族だからという特別な扱いではなく、あくまで仕事ぶりを紹介する企画の中で名前が出た形になります。

そのため記事の分量自体は短く、就任のコメントと統括業務の説明が中心になっています。

限られた情報の中からでも、坂倉さんが地域に根ざした仕事を続けてきたことは読み取れます。

外木場家とのつながりが分かるのは、この記事の見出しに置かれた一文のおかげだといえます。

中国支店長として統括する中国5県の拠点

坂倉さんが統括する中国支店は、広島を拠点に鳥取・島根・岡山・山口を含む中国5県をカバーしています。

10カ所の営業拠点を一人でまとめる立場は、保険業界でも相当な重責といえます。

就任時のコメントでは「地域に密着し、ニーズに合った商品を提供したい」と意気込みを語っていました。

野球界とはまったく異なる業界で結果を出している人物が、外木場家の娘婿になっているという構図です。

娘2人とも一般の家庭を築いているとみられ、芸能やスポーツの世界とは距離を置いた暮らしぶりがうかがえます。

保険という業種は、事故や災害が起きたときに生活を支える重要な役割を担っています。

10拠点という規模を一人の支店長が統括するのは、長年の実績と信頼があってこそ任される仕事です。

自動車保険や旅行保険、労災事故に関する保険など、個人と法人の両方を顧客に持つ業態でもあります。

中国地方という広いエリアをカバーする立場だけに、移動の多い働き方をしているとみられます。

就任のタイミングが「4月」と報じられていることから、人事異動のシーズンに合わせた昇進だった可能性があります。

こうした経歴からも、坂倉さんが保険業界で着実にキャリアを積み重ねてきた人物であることが伝わってきます。

見出しに刻まれた「妻の父は外木場義郎」の重み

注目したいのは、中国新聞が付けた見出しの付け方です。

保険会社の支店長を紹介する企画記事でありながら、見出しの冒頭に「妻の父は元カープの外木場義郎さん」と置かれていました。

これは広島という土地で外木場さんの名前がどれほど通っているかを示す分かりやすい証拠です。

引退から40年以上たっても、広島では「カープのエース」として記憶され続けていることになります。

坂倉さん本人も、義父の名前を隠さずインタビューで語っていることになりますね。

通常、企業人を紹介する連載であれば、本人の経歴や仕事内容が見出しの中心になるのが一般的です。

それにもかかわらず、義理の父親である外木場さんの名前が見出しの冒頭に置かれたのは、異例の扱いといえます。

新聞社の編集判断として、読者の関心を引く要素が外木場さんの名前にあると判断されたことになります。

広島東洋カープという球団への地元の愛着の強さが、こうした見出しの付け方にも表れているといえるでしょう。

坂倉さん自身の実績や人柄よりも先に、外木場さんとの関係が紹介されてしまう点は、良くも悪くも地元の有名人の宿命かもしれません。

それでも坂倉さんが取材に応じ、義父の名前を公にしていること自体に、家族としての自然な関係性がうかがえます。

野球とは無縁の業界で結果を出す娘婿の存在

外木場さんが娘婿とどう接しているかについて、具体的な発言は公表されていません。

ただ、娘婿が取材で義父の名前を明かしているという事実から、良好な関係だと推測できます。

現役時代は記者に強気な返しをする気性の持ち主でしたが、引退後の指導者としての評判は温かいものでした。

家庭でも同じように、必要なことだけを静かに伝えるタイプの義父なのかもしれません。

妻・宣子さんが築いた家庭の雰囲気も、そこに大きく関わっているはずです。

現役時代の外木場さんは、記者からの質問に対して遠慮なく本音を返すタイプだったと伝えられています。

そうした気性の持ち主が、家庭の中でどのように振る舞っていたのかは、多くが想像にとどまります。

指導者としては若手の体調を気遣う温かさを見せていたことから、家庭でも同様の一面があったと考えられます。

野球とは全く異なる保険業界で結果を出している娘婿を、本人がどう評価しているのかは今後明かされるかもしれません。

異なる世界で生きる2人の男性が、一つの家族として結びついているという事実そのものが興味深いところです。

孫たちにとっても、祖父が野球の世界、父親が保険業界という異なる背景を持つ家庭環境は、特別な経験になっているはずです。

抱っこできなかった下の娘への悔い

「下の子は右肩を痛めた頃に生まれたから、抱っこをあまりできていない」。

外木場さんが家族を振り返るとき、必ず出てくるのがこの一言です。

ここでは、なぜこうした後悔が生まれたのかを、当時の環境から具体的に見ていきます。

本人が語った後悔の言葉

南日本新聞の連載最終回で、外木場さんは娘2人の誕生と妻の苦労をまとめてこう振り返っています。

「下の子は右肩を痛めた頃に生まれたから、抱っこをあまりできていない。女房は大変だったと思う。女房の力は大きく精神的にも支えになった」。

自分の記録や栄誉ではなく、まず妻の苦労に触れているところがこの人らしい部分です。

80代になった今もこの件を口にするということは、半世紀近く心に残り続けている後悔だと分かります。

栄光の記録を並べるより先にこの話が出てくるところに、外木場さんの誠実さがうかがえます。

南日本新聞の連載は、本人の語りをそのまま記事に落とし込む形式で進められていました。

記者の解釈を挟まず、外木場さんの言葉がそのまま読者に届くよう構成されていた点も特徴的です。

数々の記録よりも先に家族への思いを口にする姿勢は、連載全体を通して一貫していました。

完全試合や3度のノーヒットノーランという大記録を持つ投手でありながら、話の重心は常に家族に置かれていたことになります。

こうした語り口からも、外木場さんという人物の誠実さや謙虚さがうかがえます。

記録を自慢するのではなく、支えてくれた家族への感謝を先に語るという姿勢は、多くの読者の心にも残ったはずです。

1976年という年の投手としての過酷さ

下記の表で、外木場さんが投げ続けた年度ごとの投球回数を確認してみます。

年度 投球回 完投数 備考
1968年 302.1回 19完投 完全試合達成
1969年 304.1回 –
1974年 310.1回 21完投 長女誕生の翌年
1975年 287回 24完投 初優勝・沢村賞
1976年 144.1回 – 次女誕生・右肩負傷

1975年の287回から1976年の144.1回へと、投球回数がほぼ半減していることが分かります。

エースとしての役割と肩の限界が同時に押し寄せた年だったことが、この数字からも伝わってきます。

表を見ると、1974年の310.1回という投球回数の多さが際立ちます。

1シーズンに300回を超える球数を投げ続けることが、当時のエースにとって当たり前だったことが分かります。

1975年の287回も含めると、わずか2年で600回近くを投げ込んでいたことになります。

肩への負担が限界に達するのは、ある意味で自然な結果だったとも考えられます。

1976年の144.1回という数字だけを見ても、いかに急激な落ち込みだったかが伝わってきます。

投球回数の激減は、本人にとっても家族にとっても将来への不安を感じさせる出来事だったはずです。

この年の苦しさが、後の指導観にもつながっています。

昭和のプロ野球選手に共通した家庭の事情

1970年代のプロ野球は、家族のケアという考え方がまだ一般的ではありませんでした。

根本陸夫監督時代の広島は1日600球の投げ込みを課し、食事中の会話を禁じる精神修行まで取り入れていた球団です。

キャンプでは朝から砂浜を走らされるという猛練習が当たり前で、選手の体も生活も野球に捧げるのが常識でした。

そんな環境で父親業まで求められるのは、現実的に無理があったと言えますよね。

外木場さんの後悔は個人の怠慢ではなく、時代の構造によるものだったと受け取るのが公平でしょう。

現在ではピッチャーの投球数や登板間隔に厳しい制限が設けられていますが、当時はそうした考え方自体がほとんどありませんでした。

「エースなら投げて当然」という価値観が、球界全体に広く根付いていた時代だったといえます。

選手会や労働環境についての議論も今とは比べものにならないほど限られていました。

家庭のサポート体制についても、妻が一人で担うのが当たり前という風潮が根強かったとみられます。

令和の今、外木場さんが育成塾で選手の体調管理を重視しているのは、こうした時代の反省が土台になっているといえます。

時代背景を踏まえると、外木場さんの後悔は決して特別なものではなかったとも言えそうです。

現在の指導スタイルに表れる反省の形

引退後の外木場さんは、若手選手の体調管理を何より重視する指導者になりました。

選手より早くグラウンドに行き、「体調は」「故障していないか」と確認を心がけていたのは有名な話です。

投げ込みの量も選手と話し合って決めていたといいますから、自分の経験を次の世代に生かした形といえます。

家庭に負担をかけた悔いが、選手の体を守る姿勢につながっているとも見ることができます。

現在は孫2人にも恵まれ、抱っこできなかった時間を孫との時間で埋め合わせているのかもしれませんね。

育成塾での指導方針は、現役時代の猛練習とは対照的に、選手の負担を見極める姿勢が中心になっています。

かつて自分が壊した肩と同じ思いを、次の世代にさせたくないという思いが根底にあるとみられます。

川口和久さんを鍛え上げた際にも、ただ厳しくするだけでなく、本人と話し合いながら進めていたと伝えられています。

こうした姿勢は、家庭で十分に向き合えなかった娘への思いが、形を変えて表れているようにも見えます。

孫たちと過ごす時間もまた、かつて果たせなかった父親としての役割を、少しずつ取り戻す機会になっているのかもしれません。

後悔を抱えながらも前向きに次の世代と向き合う姿勢は、多くの読者の共感を呼ぶところでもあります。

妻・宣子が築いた家庭と祈願の日々

外木場義郎さんの野球人生を語るうえで欠かせないのが、妻・宣子さんの存在です。

結論から言うと、宣子さんは夫の登板日になるたびにお寺へ参っていた一般女性です。

ここでは、妻としての15年間と、家族がどのように支え合ってきたのかを整理します。

妻・宣子について分かっている情報

下記の表は、新聞報道から確認できる宣子さんの情報をまとめたものです。

項目 分かっていること
名前 宣子
顔写真・生年月日 非公表
出身地・職業 非公表
結婚した時期 非公表(長女誕生の1973年より前)
子供 娘2人(1973年・1976年誕生)
孫 2人
現在の住まい 広島市とみられる

名前だけが実名で出ていて、そのほかの個人情報はほぼ伏せられているという状態ですね。

表を見ると、名前以外の項目がほとんど「非公表」で占められていることが分かります。

これは外木場さん本人が、意図的に妻の私生活を語らないようにしてきた結果とみられます。

現役時代から引退後まで、宣子さんがメディアの前に姿を見せたという記録は見当たりません。

プロ野球選手の妻という立場でありながら、一般人としての生活を貫いてきたことがうかがえます。

結婚相手を選ぶ際の基準や馴れ初めについても、本人が語った記録は残されていません。

こうした一貫した非公表の姿勢は、娘2人や孫2人にも共通しているポイントだといえます。

外木場家全体が、家族の個人情報を守り抜いてきたという印象を受けます。

その姿勢があったからこそ、娘や孫たちは今も静かな生活を送れているとも考えられます。

それだけ家庭的な情報を公にしない方針が徹底されていたことになります。

登板日ごとに寺へ通った15年間

南日本新聞の連載によると、宣子さんは夫の登板日になるたびに、活躍を願ってお寺にお参りしていたといいます。

外木場さんは15年間で445試合に登板しており、単純計算でもそれだけの回数、宣子さんは願掛けを重ねてきたことになります。

完全試合を達成した1968年9月14日の大洋戦も、3度目のノーヒットノーランを決めた1972年4月29日の巨人戦も、宣子さんはお参りを済ませてから結果を待っていたことになります。

テレビ中継が全試合あるわけでもなく、ラジオか翌日の新聞で結果を知るという時代だったことも忘れてはいけません。

自分では何もしてやれない代わりに、せめて無事に投げ切ってほしいと願ってお寺へ向かっていたのだと考えると、胸に迫るものがあります。

1日も欠かさず祈っていたわけではないにせよ、15年間という期間の長さは並大抵のものではありません。

登板日が近づくたびに緊張感を抱えながら過ごす日々が、15年にわたって続いていたことになります。

夫が結果を出せば喜び、打たれて負ければ落ち込むという感情の起伏を、ひとりで受け止めてきたとみられます。

こうした地道な積み重ねがあったからこそ、1975年の初優勝という大舞台につながったのかもしれません。

1979年引退を決めた妻の一言

外木場さんが1979年、34歳で現役を引退する際にも、宣子さんの存在が大きく関わっています。

当時、西武の監督だった根本陸夫さんから現役続行の誘いがあったといいますが、宣子さんの「カープで終わるのもいい」という一言が引退の決め手になったそうです。

肩の状態を考えれば、別の球団でもう少し現役を続けるという選択肢もあったはずです。

それでも家庭を優先する形で決断できたのは、妻の言葉があったからこそだったと言えます。

この引退が、のちの広島2軍投手コーチという指導者人生の出発点にもなりました。

根本陸夫さんは、かつて広島の監督として外木場さんを鍛え上げた人物でもあります。

その根本さんから直接声をかけられたという事実は、外木場さんの実力がまだ評価されていたことを示しています。

西武という強いチームへの移籍は、現役続行を望む選手にとって魅力的な選択肢だったはずです。

それでも家庭を優先するという決断ができたのは、宣子さんとの信頼関係があったからこそだといえます。

引退後の人生を見据えたとき、この決断が結果的に外木場さんを「カープ一筋のレジェンド」という立場に導いたことになります。

もし西武に移籍していたら、今のような評価や語られ方になっていなかったかもしれません。

馴れ初めや結婚時期は非公表のまま

宣子さんとの馴れ初めや結婚した具体的な時期については、現時点で公表されている情報がありません。

長女が1973年に誕生していることから、少なくともそれ以前に結婚していたことは確実です。

プロ野球選手の配偶者といえば元アナウンサーや女優という例も目立ちますが、宣子さんはそうしたタイプではなく、家庭から夫を支えることに徹した昭和の妻らしい立ち位置だったと読み取れます。

一般的に、1970年代前半までには結婚していたと考えるのが自然な流れです。

プロ入り当初から順調に活躍していた外木場さんであれば、20代のうちに身を固めていた可能性も十分にあります。

結婚の経緯や時期を本人が語らない姿勢は、妻のプライバシーを守るための選択だったとも考えられます。

野球一筋だった現役時代、家庭を支えた宣子さんの存在があったからこそ、記録的な活躍が可能になったという見方もできます。

馴れ初めが分からないからこそ、残された家族のエピソードがより一層貴重に感じられます。

今後本人がさらに詳しく振り返る機会があれば、結婚の経緯についても語られる可能性はあるでしょう。

気になる人も多いはずなので、新しい情報が出てきたら今後もアップデートしていきますね。

外木場義郎と孫世代|経歴と指導の今

  • 外木場義郎のプロフィール|鹿児島出身エース
  • 完全試合含む3度のノーヒットノーラン
  • 1975年初優勝と沢村賞|20勝の軌跡
  • 妻の一言で決めた1979年の引退
  • 育成塾で向き合う孫世代の投手たち

外木場義郎のプロフィール|鹿児島出身エース

孫や家族の話を深く理解するには、まず外木場義郎さんがどんな選手だったのかを押さえておく必要があります。

ここでは、公式データとして残っている基本情報を整理していきます。

プロフィール一覧表

下記の表で、外木場さんの基本情報を確認してみましょう。

項目 内容
氏名 外木場義郎(そとこば よしろう)
生年月日 1945年6月1日
2026年11月03日現在の年齢 81歳
出身地 鹿児島県出水市(旧薩摩郡東郷町生まれ)
身長・体重 175cm・78kg
投打 右投右打
学歴 出水中学校・鹿児島県立出水高等学校
社会人野球 電電九州
プロ入り 1964年9月に広島カープへ入団
現役期間 1965年から1979年までの15年間
現在の住まい 広島市

この表からも分かるとおり、外木場さんは電電九州という社会人野球チームを経てプロ入りしています。

当時、社会人野球からプロへ進む選手は多く、電電九州もプロ選手を輩出する強豪として知られていました。

175cmという身長は、当時の投手としては標準的な体格でした。

決して大柄ではない体格から繰り出される速球とカーブが、多くの打者を苦しめたことになります。

小さな体格を最大限に生かした投球術こそが、外木場さんの野球人生を支えた土台だったといえそうです。

この基本情報を押さえておくことで、後述する孫や家族のエピソードもより理解しやすくなるはずです。

こうした基礎データの一つひとつが、外木場さんという人物像を形づくっています。

鹿児島県出水市での生い立ちと野球との出会い

外木場さんは旧薩摩郡東郷町、現在の薩摩川内市で、5人きょうだいの3番目として生まれました。

父親がバス会社の事務職だったため家族で転勤を繰り返し、現在のさつま町にある盈進小学校で遊びのソフトボールを始めています。

その後に出水市へ移り、出水中学校で野球部監督の上垣侃さんに誘われて本格的に野球をスタートさせたという経緯があります。

強豪校からの誘いを断り、地元の県立出水高校に進学したという逸話も残っています。

高校2年の時点では巨人のスカウトから「プロでは通用しない」と見られていたそうですが、最終的には5球団が注目する存在へと成長しました。

5人きょうだいの3番目という立場は、上にも下にも兄弟姉妹がいる環境だったことを意味します。

転勤の多い家庭で育ったことが、新しい環境に早く馴染む性格を育んだのかもしれません。

ソフトボールから野球へと移っていく過程は、当時の地方の子供たちにとって珍しくない道のりでもありました。

出水中学校での野球部監督・上垣侃さんとの出会いがなければ、プロ入りという道は開けなかったかもしれません。

一人の指導者との出会いが、後の球界を代表する投手の人生を大きく変えたことになります。

そうした原点があったからこそ、後の活躍につながっていきました。

電電九州から広島入団までの道のり

出水高校を卒業した外木場さんは、社会人野球の電電九州でプレーしました。

ここでの活躍が評価され、1964年9月、投手として広島カープに入団しています。

入団2年目の1965年10月2日、甲子園での阪神戦でプロ初登板にして初勝利を無安打無得点で飾るという衝撃的なスタートを切りました。

この日は本来の先発予定だった大羽進さんの体調不良による代役先発だったと伝えられています。

憧れの投手だった阪神の村山実さんと対戦したこの試合は、3回に1四球を与えたのみの準完全試合でもありました。

社会人野球の電電九州では、実戦経験を積みながら投手としての技術を磨いていきました。

1964年9月という入団時期は、シーズン途中からの契約だったことを示しています。

翌1965年、入団2年目にしてプロ初登板という早いタイミングで一軍のマウンドに立つことになりました。

本来の先発予定だった大羽進さんの体調不良がなければ、このデビューはもう少し遅れていたかもしれません。

巡り合わせともいえるこの代役先発が、プロ野球史に残る伝説の始まりになりました。

憧れだった村山実さんと同じマウンドに立てたことも、この日の忘れられない思い出だったはずです。

背番号14に込められた意味

外木場さんが入団2年目から背負った背番号は「14」でした。

この番号は1952年以降、現在に至るまで広島の投手に受け継がれており、津田恒実さんや大瀬良大地さんといった名投手たちが後に続いている番号です。

外木場さんは1965年から1979年までの15年間、この「14」とともに歩みました。

今も「カープの背番号14」と聞いて外木場さんの名前を思い浮かべるファンは多いといいます。

鹿児島の寒村から出てきた一人の投手が、球団史に残る背番号の系譜を作ったことになります。

背番号14は、1950年の球団創設からの2年間だけ内野手が付けていたという珍しい歴史を持っています。

1952年以降は一貫して投手が背負う番号となり、外木場さんはその伝統を作った最初期の投手の一人でした。

津田恒実さんはストッパーとして、澤﨑俊和さんはスライダーを武器に、それぞれ違う形で「14」を受け継いでいます。

現在の背番号14である大瀬良大地さんも、先輩たちの記録を追い越したいと公言しているそうです。

背番号という一つの数字をたどるだけでも、広島投手陣の歴史がつながって見えてくるのが面白いところです。

外木場さんの存在が、この番号に特別な重みを与えたことは間違いありません。

完全試合含む3度のノーヒットノーラン

完全試合1度を含むノーヒットノーラン3度という記録は、プロ野球史上ただ一人の快挙です。

ここでは、この記録がどのように達成されていったのかを時系列で見ていきます。

プロ初勝利から始まった伝説(1965年)

前述の通り、外木場さんのプロ初勝利は1965年10月2日、甲子園での阪神戦における無安打無得点でした。

試合後、記者から「こういう記録を達成した人は意外と短命だからねぇ」と声をかけられた外木場さんは、「なんならもう一回やりましょうか?」と切り返したと伝えられています。

この一言は、今でも語り草となっているほど有名なエピソードです。

プロ初勝利・初完投・初完封を無安打無得点で飾るという異例のスタートが、外木場さんの野球人生の幕開けでした。

このデビュー戦で対戦した阪神の村山実さんは、外木場さんが憧れていた投手でもありました。

憧れの投手と初登板の舞台で投げ合い、しかも記録的な勝利を収めるという、まさに運命的な一戦だったといえます。

当時の外木場さんはまだ10試合の登板経験しかなく、プロとしての実績はほぼ無い状態でした。

それにもかかわらず、大舞台でも動じずに投げ切ったメンタルの強さがうかがえます。

この一戦をきっかけに、外木場さんは一気に広島の期待の星として注目を集めるようになりました。

記者の軽口に動じず切り返した一言も、後年まで語られる人気のエピソードになっています。

まさに伝説の幕開けにふさわしいデビューだったといえるでしょう。

1968年、根本監督のもとで達成した完全試合

1968年、監督に就任した根本陸夫さんのもとで、外木場さんは先発投手として抜てきされます。

1日600球という投げ込みを課され、食事中の会話を禁じる精神修行まで経験したといいますから、たくあんを丸のみしたという逸話まで残っているほどの猛練習だったようです。

そうした環境の中で、同年9月14日に対大洋戦で完全試合を達成しています。

この年は21勝を挙げて最優秀防御率のタイトルも獲得し、広島は球団史上初のAクラス入りを果たしました。

個人の復活と球団の躍進が同時に訪れた一年だったことになります。

完全試合は、安打だけでなく四球や失策による走者も一人も許さない、投手にとって最高難度の記録です。

対大洋戦でこの完全試合を達成したことで、外木場さんの名前は球界に広く知れ渡りました。

この年は21勝を挙げて最優秀防御率のタイトルも獲得するなど、投手として完全に復活したシーズンでもありました。

根本監督による猛練習が、結果として最高の形で結実したシーズンだったことになります。

この年の活躍がなければ、1975年の初優勝も違った形になっていたかもしれません。

猛練習の是非については議論が分かれるところですが、結果だけを見れば球団にとって大きな転換点になりました。

1972年、3度目のノーヒットノーラン

1972年4月29日の巨人戦では、3度目となるノーヒットノーランを達成しました。

この試合には、当時すでにレジェンドだった巨人の長嶋茂雄さんも出場していました。

外木場さん本人は後年、「長嶋さんは他の打者が打てないような球を打ってくる。意外性がありましたよ」と振り返っています。

1971年6月8日の対戦では、7回2死までノーヒットノーランに抑えていたところを、長嶋さんに大根切りの打ち方で本塁打にされた経験もあったそうです。

「対策は『打席に立った長嶋さんの顔を見るな』でした」という言葉からも、両者の因縁がうかがえます。

この試合は巨人との対戦であり、相手チームには長嶋茂雄さんや王貞治さんといった球界の顔が揃っていました。

強打者が居並ぶ巨人打線を相手に無安打無得点を達成したことは、記録の価値をさらに高めています。

長嶋さんとの対戦は、外木場さんにとって特別な緊張感を伴うものだったと振り返られています。

「打席に立った長嶋さんの顔を見るな」という対策は、裏を返せば長嶋さんの存在感がいかに大きかったかを物語っています。

こうした名選手たちとの対決の積み重ねが、外木場さんの投手としての価値をさらに高めていきました。

史上ただ一人の記録という評価

下記の表で、外木場さんが達成した3度の記録を一覧にして振り返ってみます。

年月日 対戦相手 内容
1965年10月2日 阪神(甲子園) プロ初勝利・無安打無得点(1四球)
1968年9月14日 大洋 完全試合
1972年4月29日 巨人 3度目の無安打無得点

沢村栄治さんも3度のノーヒットノーランを達成していますが、完全試合を含む形での3度達成は外木場さんただ一人です。

完全試合における最多奪三振(16奪三振)の記録も、長く外木場さんが保持していました。

2026年4月には千葉ロッテの佐々木朗希投手が完全試合を達成し、この記録が話題になる場面もあったといいます。

80年を超えるプロ野球の歴史で完全試合を達成した投手はわずか16人しかおらず、そのうち広島から名を刻んでいるのは外木場さんだけというのも特筆すべき事実です。

この記録があるからこそ、外木場さんは今も「伝説の右腕」として語り継がれています。

沢村栄治さんの時代とは野球のルールや環境も大きく異なるため、単純な比較は難しい面もあります。

それでも「完全試合を含む3度のノーヒットノーラン」という条件を満たす投手が外木場さんだけという事実は揺るぎません。

佐々木朗希投手の完全試合が話題になったことで、改めて外木場さんの記録に注目が集まる場面もありました。

新しい世代の活躍が、過去の記録の価値を再確認させてくれるという巡り合わせは興味深いものです。

令和の時代になっても語り継がれる記録を持っているという点で、外木場さんは別格の存在だといえます。

1975年初優勝と沢村賞|20勝の軌跡

1975年、外木場さんは20勝を挙げて広島に球団創設以来初めてのリーグ優勝をもたらしました。

ここでは、この記念すべき一年を詳しく振り返っていきます。

ジョー・ルーツ監督が求めた20勝という目標

1975年に新監督として就任したジョー・ルーツさんは、外木場さんに41試合の登板と最低20勝を求めました。

外木場さんは期待に応え、実際に20勝、193奪三振を記録して最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得しています。

さらに沢村栄治賞、ベストナイン、日本シリーズ優秀選手賞まで獲得する活躍でした。

この年の広島は「赤ヘル」が定着していく転換点でもあり、ルーツ監督による意識改革が球団全体に影響を与えたとされています。

弱小といわれてきた広島が、一人のエースの活躍をきっかけに変わっていった一年だったといえます。

ジョー・ルーツさんはアメリカ出身の監督で、それまでの広島とは異なる指導方針を持ち込んだ人物です。

「最低20勝」という具体的な数字を示されたことが、外木場さんにとって大きな目標になりました。

この年のチームは「赤ヘル」という新しいイメージ戦略も導入し、球団全体が変化を迎えていました。

最初は赤いヘルメットへの違和感もあったと伝えられていますが、優勝という結果がすべてを納得させました。

外木場さんが数字で目標を示されて結果を出すというスタイルは、後の指導者人生にも影響を与えたのかもしれません。

この目標設定が、シーズン全体の指針になっていったとみられます。

日本シリーズ2試合での延長13回完投

阪急との日本シリーズでは、外木場さんは第1戦と第4戦に先発しました。

どちらも延長13回を投げ切って引き分けに持ち込んでいるというのですから、驚異的な粘りです。

200球を超える完投を経験したとも伝えられており、当時の投手がどれほど酷使されていたかが分かります。

優勝決定の試合では、生涯「ただ一球」というスライダーを投げたという逸話も残されています。

代名詞であるカーブ以外の球種を、勝負の大一番でだけ使ったという話は、外木場さんの投球術の深さを物語っています。

延長13回という長丁場を2試合も投げ切ったことは、当時の肩への負担を考えると驚異的です。

200球を超える球数を投げ続けるという経験は、現代の野球ではほとんど見られません。

この無理な起用が、翌年以降の右肩の不調につながった可能性も否定できません。

それでも日本一という目標のために全力を尽くした姿は、チームメイトからも高く評価されていました。

優勝を決めた一球に選んだスライダーは、普段使わない球種だからこそ打者の意表を突く効果があったとみられます。

この勝負強さこそが、外木場さんが「エース」と呼ばれる理由の一つだったといえるでしょう。

こうした粘りの投球が、チームの勝利への執念を体現していました。

受賞歴を時系列で整理

下記の表で、外木場さんの主な受賞歴を時系列にまとめてみます。

年 表彰・タイトル 内容
1968年 最優秀防御率 防御率1.94
1975年 最多勝利・最多奪三振 20勝・193奪三振
1975年 沢村栄治賞 最優秀投手・ベストナインも受賞
1975年 日本シリーズ優秀選手賞 阪急との日本シリーズ
2013年1月 野球殿堂入り 得票率76.3%・29票
2013年5月 出水市民栄誉賞 第1号としての受賞

1968年の実力発揮から2013年の殿堂入りまで、約45年にわたる評価の積み重ねが分かります。

表を見ると、1968年から2013年まで、45年という長い時間軸で評価が積み重なっていることが分かります。

現役時代の実績だけでなく、引退後の指導者としての功績も評価につながったと考えられます。

出水市民栄誉賞の第1号という肩書きは、地元にとっても記念碑的な出来事だったはずです。

これだけ多くの賞を受けながらも、本人は常に周囲への感謝を語る姿勢を崩していません。

そうした謙虚さもまた、外木場さんが長く愛される理由の一つになっているのでしょう。

数字としての記録と、人柄としての評価が両方揃っているのが外木場さんの特徴だといえます。

これだけの実績を積み重ねてきたからこそ、今も語り継がれる存在になっています。

30万人が集まった優勝パレード

広島が球団創立以来初めて成し遂げたリーグ優勝は、街全体を熱狂させました。

優勝パレードには30万人以上が集まったと伝えられています。

登板のたびにお寺へ通い続けた妻・宣子さんにとって、この年のマウンドは何より誇らしい光景だったのではないでしょうか。

弱小チームと呼ばれてきた広島が、一夜にして球団史に残る栄光を手にした瞬間でした。

この年の活躍があったからこそ、外木場さんは今も広島の「レジェンド」として語られ続けています。

弱小球団と呼ばれ続けてきた広島にとって、この優勝は長年の悲願が叶った瞬間でした。

30万人という人数は、当時の広島市の人口の3割近くに相当する規模だったとされています。

街中が歓喜に包まれる中、外木場さんはエースとしてその中心にいた存在でした。

この優勝を機に、広島カープは全国的な人気球団へと成長していくきっかけをつかみました。

一人のエースの活躍が、球団全体の歴史を変えるきっかけになったという見方もできます。

宣子さんが登板日ごとに寺へ通った15年間の積み重ねが、この日の歓喜につながったと考えると感慨深いものがあります。

家族の支えがあったからこそ、エースはマウンドに立ち続けられたのだといえるでしょう。

妻の一言で決めた1979年の引退

34歳という年齢での引退は、当時の球界でも早いという印象を持たれたかもしれません。

ここでは、引退に至るまでの経緯と、その後の指導者人生を整理していきます。

西武・根本陸夫からの現役続行の誘い

右肩を痛めた外木場さんは、東京・大阪・福岡・広島といい病院を片っ端から回りました。

医師からは「投げすぎかな」「もう限界が来ているよね」と、どこでも同じ診断を受けたそうです。

そんな中、かつて広島の監督だった根本陸夫さんが当時指揮を執っていた西武から、現役続行の誘いがあったと伝えられています。

もう少しプレーしたい気持ちはあったものの、肩が言うことを聞かなかったといいます。

15年間で445試合に登板し131勝、1678の三振を奪った剛腕にとって、引き際を決める重い選択でした。

病院を回っても肩の状態が改善しないという状況は、本人にとって大きな焦りにつながったはずです。

医師全員が同じ診断を下したという事実は、肩の状態がかなり深刻だったことを示しています。

根本陸夫さんはかつて広島の監督として外木場さんを鍛え上げ、完全試合や21勝というシーズンを共に経験した間柄でした。

その根本さんが声をかけてきたということは、外木場さんの実力をまだ高く評価していたことを意味します。

肩が万全でなくても、経験と技術でまだやれるという期待があったのかもしれません。

この誘いを受けるかどうかは、外木場さんにとって野球人生最大の決断だったといえます。

「カープで終わるのもいい」という妻の言葉

最終的に引退を決めたのは、妻・宣子さんの一言でした。

「カープで終わるのもいい」という宣子さんの言葉が、西武からの誘いを断る決め手になったそうです。

肩の状態を考えれば他球団でもう少し現役を続ける選択肢もあったはずですが、家庭の意見を優先した形になります。

1979年、広島が初めて日本一に輝いた年に、外木場さんはユニホームを脱ぎました。

「長年やっていたら大なり小なり結果は出ると思っていた。ただ、故障で辞めることになったのは残念だった」という言葉にも、本人の心境がにじんでいます。

宣子さんがどのような思いでこの言葉を口にしたのか、詳しい経緯は語られていません。

15年間、登板日ごとに寺へ通い続けた妻だからこそ言える重みのある一言だったはずです。

家庭を顧みる時間が少なかった現役生活を知っているからこその、シンプルで力強い言葉だったといえます。

この一言がなければ、外木場さんは西武でもう数年、現役を続けていたかもしれません。

結果的に、カープ一筋という生き方が、後年の「レジェンド」としての評価につながっていきました。

妻の一言が、夫のその後の人生の方向性を決定づけたという事実は、夫婦の信頼関係の深さを物語っています。

引退後に歩んだ指導者としての道

引退後、外木場さんはまず広島の2軍投手コーチに就任しました。

選手より早くグラウンドに行き、「体調は」「故障していないか」と確認を心がけていたといいます。

広島と巨人で139勝を残した左腕・川口和久さんは入団時、線が細く本人も「地獄」と嘆くほど鍛えられた一人です。

「それがいずれ成功する。練習はうそをつかない。彼の活躍はうれしかった」と外木場さんは振り返っています。

広島で計15年、オリックスで3年、カープアカデミーで2年という指導歴を重ねてきました。

2軍投手コーチという立場は、1軍の第一線から退いたとはいえ、球団にとって欠かせない役割です。

自らの故障経験があるからこそ、選手の体調変化に敏感に気づけたのだと考えられます。

川口和久さんのように体が線の細い若手を鍛え上げるには、厳しさと気配りの両方が必要だったはずです。

結果として川口さんは広島と巨人で通算139勝という大投手に成長しました。

教え子の活躍を自分のことのように喜ぶ姿からも、外木場さんの指導者としての人柄が伝わってきます。

オリックスやカープアカデミーでの指導も含めると、現役15年に匹敵する長さの指導者人生を歩んできたことになります。

こうした指導者人生もまた、外木場さんの野球人生の大切な一部です。

2013年殿堂入りと出水市民栄誉賞

2013年1月、外木場さんは野球殿堂入りを果たしました。

「信じられない気持ちだった。感無量。ファンや同僚、関わったみんなのおかげでやってこられた」という言葉で喜びを語っています。

同年5月には、出水市民栄誉賞の第1号も受賞しました。

「私の野球人生は出水から始まり、いい指導者、仲間に恵まれた。感謝しかない」と、地元への感謝も忘れていません。

引退から34年を経て、夫婦で積み上げてきた野球人生が公式に認められた瞬間だったわけです。

野球殿堂入りは、長年の功績が球界全体から公式に認められる、投手にとって最高の名誉の一つです。

得票率76.3%、29票という結果は、多くの関係者から支持されたことを示しています。

引退から34年という長い時間を経て、ようやく訪れた評価の瞬間だったことになります。

同じ年に出水市民栄誉賞の第1号も受賞したことは、地元にとっても特別な意味を持つ出来事でした。

地元の第1号という肩書きは、後に続く出水市出身者にとっての道標にもなっています。

野球殿堂入りと出水市民栄誉賞という二つの栄誉を同じ年に受けたことで、2013年は外木場さんにとって特別な一年になりました。

この一年が、外木場さんの野球人生における大きな節目になったといえます。

育成塾で向き合う孫世代の投手たち

「外木場義郎は亡くなったのか、それとも生きているのか」と気になって検索した方もいるかもしれません。

結論から言うと、外木場さんは亡くなっておらず、現在も広島市で元気に過ごしています。

2026年11月03日現在、81歳になった外木場さんは、今も現役で野球の指導に立ち続けています。

ここでは、孫の存在ともつながる現在の外木場さんを見ていきます。

外木場義郎バッテリー育成塾とはどんな場所か

外木場さんは、広島県内のNPO法人ポラーノが運営する「外木場義郎バッテリー育成塾」で指導を続けています。

月2回のペースで、中学生の投手を中心に投球技術を教えているそうです。

「子どもたちは希望を持って入ってくるので、期待に応えられるよう教えている。プロに行ける選手を育てたい」と、15年以上にわたって情熱を傾けています。

理事という立場で関わり続けていることからも、本人にとって特別な場所であることがうかがえます。

NPO法人ポラーノは、広島県内で野球をはじめとするスポーツ振興に取り組む団体として知られています。

理事という立場で名前を冠した育成塾を運営していることからも、外木場さんの野球への思いの強さが伝わってきます。

月2回という頻度は決して多くはありませんが、15年以上続けているという継続性にこそ価値があります。

中学生という年代は、投球フォームや体の使い方を基礎から学ぶのに最も大切な時期でもあります。

完全試合やノーヒットノーランを3度も経験した投手から直接指導を受けられる環境は、非常に貴重なものです。

「プロに行ける選手を育てたい」という言葉には、自らが歩んだ道を後進にもつなげたいという思いが込められています。

中国新聞連載が伝えた孫世代という一言

中国新聞の連載「生きて・広島東洋カープ元投手 外木場義郎さん」の第17回には、興味深い記述があります。

そのタイトルは「次代へ 野球が好き 何より大事」で、「孫世代になる令和の投手には一家言ある」という一文が添えられていたのです。

つまり外木場さんにとって、育成塾で教える令和世代の投手たちは、年齢的にちょうど自分の孫世代にあたる存在だということになります。

実際の孫については性別や年齢こそ非公表ですが、本人の口から「孫世代」という言葉が出ている事実は、この記事のテーマとも深く結びついています。

家庭で抱っこできなかった時間の悔いが、グラウンドで次の世代と向き合う時間につながっているようにも見えます。

連載のタイトルに「次代へ」という言葉が使われていたことも、この一文の重みを物語っています。

単なる技術指導という意味を超えて、世代を超えたつながりを意識していたことがうかがえます。

実際の孫との関わりは非公表のままですが、この一言は本人の心情を知る貴重な手がかりになります。

孫という存在が、血のつながりだけでなく、指導という形でも本人の人生に影響を与えているように見えます。

この一文がなければ、孫というテーマと指導者としての現在がつながることはなかったかもしれません。

月2回の指導で外木場さんが重視すること

投手コーチ時代から一貫しているのは、選手の体調管理を何より重視する姿勢です。

投げ込みの量は選手自身と話し合って決めるというスタイルを、育成塾でも続けているとみられます。

自分が肩を痛めて34歳で引退した経験があるからこそ、同じ失敗を繰り返させたくないという思いがあるのかもしれません。

2025年12月には母校の出水中学校にも足を運び、グラウンドで白球を追った青春時代に思いをはせたと伝えられています。

「鹿児島から優秀なプロ野球選手が出てほしい。特に出水から出るのを見たいね」という言葉にも、次世代への期待がにじんでいます。

投手コーチ時代から変わらず、選手との対話を大切にする姿勢が指導の根底にあります。

一方的に押し付けるのではなく、選手自身に考えさせる指導方法を重視しているとみられます。

自身が1日600球という過度な投げ込みで肩を壊した経験があるからこそ、説得力のある指導ができるのでしょう。

母校・出水中学校への訪問も、次の世代への思いを行動で示す機会の一つになっています。

グラウンドに立つたびに、現役時代の自分と、今目の前にいる若い投手たちの姿を重ねているのかもしれません。

こうした指導の積み重ねが、出水市や広島の野球界にとって大きな財産になっています。

BSフジ「レジェン堂」出演に見る現在の注目度

2026年9月1日には、BSフジの「プロ野球レジェン堂」に外木場さんがゲストとして出演しました。

徳光和夫さんとの対談形式で、完全試合やカーブの握り、1975年の初優勝秘話などが語られる内容だったそうです。

昭和のレジェンドとして、令和の時代になっても注目され続けていることが分かります。

スマートフォン向けゲーム「プロ野球スピリッツA」にも歴代選手として登場しており、幅広い世代のファンに名前が知られています。

若いファンからは「銀行員風の真面目そうなおじいちゃん解説者」と見られることもあるそうですが、その風貌の奥には剛腕エースとしての歴史と、孫を思う家族の顔が隠れています。

「レジェン堂」は昭和のプロ野球を彩ったレジェンドたちに焦点を当てる番組として知られています。

徳光和夫さんが長年のキャリアで引き出してきた貴重な証言の数々は、ファンにとっても見逃せない内容です。

令和の時代にも関わらず、こうした特別番組で取り上げられることは、外木場さんの記録の価値を改めて示しています。

孫世代にあたる若いファンがこうした番組を通じて外木場さんの存在を知るきっかけにもなっているはずです。

令和の投手たちを指導する現役の指導者でありながら、昭和のレジェンドとしても語られる、そんな二つの顔を持つ存在こそが今の外木場義郎さんなのだといえます。

外木場義郎の孫と家族・経歴の総まとめ

  • 外木場義郎には孫が2人いるが、性別や名前は非公表だ
  • 外木場家の長女は1973年、次女は1976年生まれだ
  • 娘婿の坂倉誠は共栄火災海上保険の中国支店長を務める
  • 娘婿の坂倉誠は中国5県10カ所の営業拠点を統括する
  • 孫について分かっているのは人数が2人ということだけだ
  • 外木場義郎は鹿児島県出水市出身で、広島の元エースだ
  • 妻の宣子さんは登板日ごとに寺へ参っていた一般女性だ
  • 下の娘の誕生は外木場さんの右肩負傷の時期と重なった
  • 1979年の引退は妻の一言が決め手になったとされる
  • 通算成績は445試合131勝、防御率2.88である
  • 完全試合を含む3度のノーヒットノーランは史上唯一だ
  • 1975年は20勝を挙げて広島に初優勝をもたらした
  • 2013年に野球殿堂入りと出水市民栄誉賞を受賞した
  • 現在も育成塾で月2回のペースで若手投手を指導している
  • 指導している投手を孫世代だと語ったこともあるそうだ

▶️他の有名人の家族・嫁・夫・子供・親族が知りたい|カテゴリー・記事一覧

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)