※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
※本サイトのコンテンツには、商品プロモーションが含まれています。
王貞治さんの父親について、どんな人物だったのか気になっている方は多いはずです。
王さんは通算868本塁打の世界記録を持つ「世界のホームラン王」として知られていますが、その原点には父親の存在があります。
父親・仕福さんは中国から日本に渡り、東京・墨田区で中華料理店「五十番」を営んでいた人物です。
国際結婚への偏見や戦時下の迫害など、知られざる苦労の歴史も残されています。
さらに、仕福さんが故郷に遺したという秘密の事業の存在も、今なお多くの謎を残しています。
この記事では、王貞治さんの父親・仕福さんの出身や人物像、家族との絆について、信頼できる情報をもとに整理していきます。
記事のポイント
①:父親・仕福さんは中国浙江省出身の渡来者
②:東京で中華料理店五十番を創業し家族を支えた
③:戦時下の迫害を越え母親・登美さんと結婚した
④:故郷に遺した秘密の事業は今も謎のまま
王貞治の父親|仕福の出身と家族の歩み
- 父親・仕福の出身は中国浙江省の寒村
- 食堂・五十番の創業からの変遷
- 母親・登美との結婚を阻んだ国籍の壁
- 関東大震災後に中国人が受けた迫害
- 双子で誕生した王貞治の壮絶な幼少期
父親・仕福の出身は中国浙江省の寒村
1959年、読売ジャイアンツに入団した王貞治さん。19歳
高卒新人なのに契約金1600万円、年俸144万円、背番号「1」という破格の条件で巨人に入団しています。
東京銀座・みゆき通りにて撮影。
※image via Pinterest https://t.co/cS41hlxxIA— 六衛府 (@yukin_done) June 8, 2024
多くの記録や証言をたどっていくと、王貞治さんの父親・仕福さんの歩みが少しずつ見えてきます。
ここでは、仕福さんがどこで生まれ、どのような経緯で日本に渡ってきたのかを、信頼できる情報をもとに整理していきます。
父親・王仕福の基本プロフィール
まずは、王貞治さんの父親である仕福さんの基本情報を表で確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 王仕福さん |
| 出身 | 中国・浙江省青田県四都 |
| 来日 | 大正11年(1922年)頃、20歳前後で単身来日 |
| 職業 | 中華料理店「五十番」経営者 |
| 国籍 | 中華民国籍 |
| 没年 | 1985年(昭和60年)、享年84 |
中国出身の父親と日本出身の母親という組み合わせは、当時としては非常に珍しい家庭環境だったといえます。
王貞治さんが現在も中華民国籍を保持しているのは、この父親の出自に由来しているというわけです。
浙江省青田県四都という寒村の実像
仕福さんの故郷である青田県四都は、「都」という漢字がついているものの、実際には厳しい環境の寒村だったそうです。
川の対岸に渡るための橋すらなく、医者にかかるためにはいくつもの山を越えなければならなかったと伝えられています。
戦前から、こうした寒村の住人が日本やヨーロッパへ移住するケースは少なくなかったようです。
仕福さんもその一人で、同じ浙江省出身者のコミュニティを頼って、日本での生活をスタートさせました。
同胞のコミュニティがあったことは、異国での生活を支える大きな助けになったと考えられます。
20歳で単身来日し工場勤めから料理人へ
仕福さんは20歳を過ぎたころ、先に日本へ来ていた親類縁者を頼って、単身で日本に渡ってきました。
当時すでに同じ浙江省から出稼ぎに来た人たちのコミュニティがあった、東京・向島区や本所区(現在の墨田区)に落ち着いています。
最初は町工場に勤めていたそうですが、いつしか料理の腕を覚え、もともと別の人が営んでいた中華料理店「五十番」を名前ごと譲り受けたと伝えられています。
右も左もわからない異国の地で、工場勤めから料理人へと転身していった仕福さんの行動力には驚かされます。
名前も書けなかった仕福の人生の重み
仕福さんは学校教育というものを一日も受けておらず、自分の名前などを除けば文字を書けなかったと伝えられています。
来日してから日本語を覚えたものの、死ぬまで中国語訛りが抜けず、たどたどしい日本語のままだったそうです。
家族は「もっと日本語が上手ならば、いろいろと胸の内を吐露できたんでしょうけれど」と、生前の仕福さんを振り返って残念がっていたといいます。
仕福さんは、自ら自分の歴史を記すことは不可能だったとも伝えられています。
それでも異国で家族を育て上げたという事実こそが、仕福さんの人生を物語る何よりの記録だといえそうです。
言葉の壁を抱えながら異国で生き抜いた仕福さんの人生は、王貞治さんの原点そのものといえそうです。
食堂・五十番の創業からの変遷
#ラジオ深夜便
親父出前行ってくるわ 王貞治さん🤣 https://t.co/7M6HDfX9eZ
— maripon (@maripon009) April 1, 2021
1928年、まだ戦前の東京で、一軒の小さな食堂が仕福さんの手に渡りました。
ここからは、父親・仕福さんが育てた中華料理店「五十番」の歩みを、時系列で整理していきます。
居抜きで買い取った一軒目の五十番
仕福さんは昭和3年(1928年)、東京・吾嬬町西八丁目にあった中華料理店「五十番」を、屋号ごと居抜きで買い取りました。
場所は現在の墨田区立第五吾嬬小学校の東側にあたり、最初は何坪もないほどの小さな店だったと伝えられています。
近所の人が驚くほど真面目に働き、中華料理店の2号店を出すなど、仕福さんは順調に事業を拡大していったそうです。
その後は中華料理だけでなく、カツライスやカレーなどの洋食も提供するようになり、喫茶コーナーまで併設する繁盛ぶりだったといいます。
王貞治が生まれた新築移転後の店舗
昭和13年(1938年)には、近くの吾嬬町西六丁目の表通りに面した20坪の土地に、二階建ての立派な店舗を新築しています。
王貞治さんは、昭和15年(1940年)5月10日、まさにこの店舗で誕生しました。
知り合いの医者の診療所まで同じ屋根の下に入り、ちょっとした「複合施設」になっていたというエピソードも残っています。
家業が軌道に乗り始めた時期に、王貞治さんはこの世に生を受けたことになります。
空襲での焼失と「押上の五十番」への移転
昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で、せっかく新築した店舗は焼けてしまいました。
それでも仕福さんはくじけず、同年11月には早くも店を再開しています。
そして同年の暮れには業平橋二丁目(現在の業平二丁目)へ移転し、これが通称「押上の五十番」と呼ばれる店になりました。
仕福さんは押上へ移転する際、「この店こそ、私達にとって最初の店だと思っている。だからここが第一、押上の店は第二・五十番にしましょう」と語ったそうです。
看板にわざわざ「第二」と入れたという逸話からは、仕福さんの元の店に対する強い思い入れが伝わってきます。
新宿への転居と五十番の歴史に残る閉店
一方、王一家が移転したあとの「吾嬬町の五十番」は、昭和21年(1946年)7月、復員してきた登美さんの弟・川口二郎さん夫妻が引き継ぎました。
仕福さんと登美さんは昭和37年(1962年)に新宿へ転居し、そこでも営業を続けていたそうです。
しかし長年働き続けた2人は、昭和40年(1965年)、ついに店を閉めることになりました。
下記の表は、五十番をめぐる歩みを時系列でまとめたものです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1928年(昭和3) | 吾嬬町西八丁目の「五十番」を居抜きで買い取り創業 |
| 1938年(昭和13) | 吾嬬町西六丁目に新築移転、王貞治さんが誕生 |
| 1945年3月 | 東京大空襲で店舗が焼失、同年11月に再開 |
| 1945年末 | 業平橋二丁目へ移転し「押上の五十番」に |
| 1946年(昭和21) | 元の吾嬬町店を登美さんの弟夫婦が継承 |
| 1962年(昭和37) | 仕福さんと登美さんは新宿へ転居 |
| 1965年(昭和40) | 新宿の店を閉店 |
一軒の食堂から始まった家業が、何度も移転と再建を重ねながら40年近く続いていたことがわかります。
母親・登美との結婚を阻んだ国籍の壁
では、父親・仕福さんと母親・登美さんは、どのように結ばれたのでしょうか。
ここでは、母親・登美さんの生い立ちと、2人が結婚に至るまでの経緯を整理していきます。
19歳で家の主となった登美の生い立ち
登美さんは日本人で、富山県の漆塗り職人の家に長女として生まれました。
輪島塗の仕事などを請け負っていた父親(王貞治さんの祖父)が働き盛りのうちに亡くなり、まもなく母親(祖母)も後を追うように亡くなったそうです。
わずか19歳で家の主となった登美さんは、弟妹の生活を支えるため、東京へ奉公に出たと伝えられています。
若くして家族を支える立場になった登美さんの境遇は、決して楽なものではなかったはずです。
東京で出会った仕福と登美の歩み
そんな登美さんと仕福さんは、東京で出会い、一緒に暮らし始めたそうです。
共に八広(現在では東京スカイツリーを仰ぎ見ることができる場所)で中華料理店「五十番」を切り盛りし、事業を拡大していきました。
近所の人が驚くほど真面目に働く2人の姿は、周囲からも評判だったようです。
前述の通り、中華料理だけでなく洋食や喫茶も手がけるようになり、事業は順調に広がっていきました。
外国人であることを理由に結婚を許されなかった日々
登美さんは、仕福さんが外国人であることを理由に、親族や周囲の人から正式な結婚を許してもらえなかったと伝えられています。
国際結婚への偏見が今よりもはるかに強かった時代、2人の関係は決して歓迎されるものではなかったようです。
正式に結婚することができたのは、終戦後になってからだったというのですから、その道のりの長さがうかがえます。
周囲の反対を押し切ってでも添い遂げようとした2人の強い意志が、のちの家族の歴史につながっていきました。
2男3女をもうけた王家の家族構成
仕福さんと登美さんの間には、最終的に2男3女の5人の子供が生まれました。
下記の表は、王家の家族構成を整理したものです。
| 続柄 | 人物 | 備考 |
|---|---|---|
| 父親 | 王仕福さん | 中国浙江省出身、1985年に享年84で死去 |
| 母親 | 登美さん | 富山県出身、2010年に享年108で死去 |
| 兄 | 鉄城さん | 貞治さんより10歳上、2008年頃に享年78で死去 |
| 双子の姉 | 広子さん | 貞治さんと同日生まれ、1歳3カ月で病死 |
| 本人 | 貞治さん | 双子の弟として誕生 |
| 姉妹 | 幸江さん・順子さん | 2男3女のうちの2人 |
こうして見ると、仕福さんと登美さんが育てた家族の規模の大きさがよくわかります。
鉄城さんが最初に生まれ、その約10年後に広子さんと貞治さんが双子として誕生したと考えられます。
5人の子供を育て上げた背景には、仕福さんと登美さんの並々ならぬ努力があったはずです。
国際結婚への偏見を乗り越えた2人だからこそ、大家族を築けたともいえるでしょう。
周囲の反対を押し切った末の結婚だったことは間違いなさそうです。
関東大震災後に中国人が受けた迫害
結論から言うと、仕福さんの人生には、中国人であることを理由にした苦難が繰り返し訪れています。
ここでは、関東大震災後の迫害から戦時下の暮らしまで、仕福さんが乗り越えてきた試練を整理します。
関東大震災後に強まった中国人への厳しい目
1923年(大正12年)に関東大震災が起きた際、朝鮮半島出身者が迫害を受けるようになったのと同様に、中国出身者に向けられる目も厳しくなったと伝えられています。
仕福さんも中国へ帰らざるを得なくなった時期があったそうです。
震災という非常時において、外国出身者への不当な扱いが広がっていった歴史は、決して軽視できないものです。
戦時中に収容所のような場所へ入れられた経験
さらに、戦時中には仕福さんが収容所のような場所に入れられていた時期もあったと伝えられています。
仕福さんが不在の間、登美さんが一人で店を守っていたというのですから、その苦労は想像を超えるものだったはずです。
家族が離れ離れになりながらも、店を存続させようとした登美さんの強さが伝わってきます。
ヤミ物資を求めて千葉まで仕入れに行った日々
戦中・戦後の物資のない時期には、配給品だけではとても商売にならなかったため、仕福さんは千葉方面まで仕入れに出かけていたそうです。
いわゆるヤミ物資だったため、何度も没収されたといいますが、それでも仕福さんはめげずに仕入れに出かけ続けました。
家族と店を守るため、リスクを承知で行動し続けた仕福さんの姿勢には頭が下がります。
5歳の王貞治が体験した東京大空襲
王貞治さん自身も、5歳を迎える年の春に東京大空襲を経験しています。
本人は後年のインタビューで「空襲の記憶はあまりないんだ。どうしてかと言うと、母の背中におぶわれて寝ていたから」と振り返っています。
戦火の中、体を張って子供を守り通したのが、父親・仕福さんと母親・登美さんだったというわけです。
当時の社会情勢を思うと、仕福さんと登美さんが乗り越えてきた苦労は、想像以上だったのかもしれません。
震災や戦争という時代の荒波を生きた移民一世
関東大震災をきっかけに広まった外国人排斥の風潮は、その後も尾を引いていたとみられます。
仕福さんが生きた時代は、1923年の震災から1945年の終戦まで、日本社会が外国出身者に厳しい視線を向け続けた時期と重なります。
中国人であることを理由にした帰国や収容という経験を、仕福さんは一度だけでなく複数回にわたって味わっていることになります。
それでも日本に残り、家族と店を守り抜いたことが、戦後の五十番の再建、そして王貞治さんの誕生へとつながっていきました。
こうした経験は、仕福さんが後年「他人に迷惑をかけるな」という教えを子供たちに伝えた背景にもつながっているのかもしれません。
異国の地で幾度も試練にさらされながらも、仕福さんは最後まで日本を離れる選択をしませんでした。
双子で誕生した王貞治の壮絶な幼少期
双子として生まれた王貞治さんの誕生には、壮絶なドラマが隠れています。
ここでは、誕生の経緯から名前の由来、幼少期の家庭環境までを見ていきます。
仮死状態で生まれ出生届が遅れた理由
昭和15年(1940年)5月10日、東京府向島区吾嬬町西(現在の墨田区八広四丁目)の「五十番」に、双子が生まれました。
双子の姉は広子さん、弟は貞治さんと名付けられ、貞治さんは半ば仮死状態で生まれたそうです。
一般には5月20日が誕生日とされていますが、これは出生届を出した日であり、実際の生誕日は10日になります。
極度に病弱だったため、すぐに出生届を出さなかったことが、この10日間のズレの理由だと伝えられています。
「出世物語」から取られた貞治という名前
貞治という名前は、母親・登美さんが入院中に読んだ本「出世物語」の主人公の名前から取られたそうです。
我が子の立身出世を願って名付けた登美さんの思いが、名前の由来からも伝わってきます。
結果的にその名の通り、貞治さんは誰もが知る大選手へと成長していきました。
双子の姉・広子の死と王貞治の変化
貞治さんは生まれてしばらくは病弱でしたが、姉の広子さんが1歳3カ月で病気のため亡くなると、その代わりのように、みるみる元気になっていったといいます。
王貞治さん自身は、後年のインタビューでこの頃を振り返り「僕は二卵性双生児でした。双子で生まれた姉に比べて小さく生まれた僕は、もしかしたら死ぬかもしれないと思われていた」と語っています。
続けて「それから僕はすごく元気に育っていった。だから小さい頃からよく母親から言われてました。『お前は2人分の力を持っているんだから。体も強くなったし、運もあるんだよ』」とも振り返っています。
母親の言葉を信じて育った貞治さんは、小学校に上がる頃にはわんぱく盛りの少年になっていたそうです。
10歳上の兄・鉄城が父親代わりだった家庭環境
王家では、仕福さんと登美さんが店の経営に忙しかったため、10歳上の兄・鉄城さんが、多忙な父親代わりとして貞治さんを育てた側面もあったようです。
両親が働く姿を間近で見ながら育った環境が、貞治さんの人格形成に影響を与えたとみることもできそうです。
家業を手伝う傍らで過ごした小中学校時代
王貞治さんが業平小学校に入学したのは、昭和22年(1947年)4月のことです。
当時の業平小学校は戦災で罹災した工場が間借りしていたうえに児童数も多く、教室が不足していたそうです。
そのため1年生と2年生の間は近くの柳島小学校に間借りして二部授業を受け、3年生になってから業平小学校に通学したと伝えられています。
昭和28年(1953年)に業平小学校を卒業すると、本所中学校に進学しました。
卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会に出場するほどの実力だったそうです。
さらに2年生の時には、それまで休部していた野球部を再開させ、3年生の時には区大会で優勝し、都大会にも出場しています。
この幼少期の経験が、王貞治さんの人並外れた体力につながったことは間違いなさそうです。
王貞治と父親の絆|教えと秘密・現在まで
- 父親の教えが育てた王貞治の人間性
- 仕福が故郷に遺した秘密の事業の謎
- 40年ぶりの里帰りで見せた父子の絆
- 父親の死後に王貞治が守る国籍の選択
- 両親を見送った王貞治の家族史
父親の教えが育てた王貞治の人間性
「他人に迷惑をかけられても、他人に迷惑をかけるな」。
これが、仕福さんが子供たちに繰り返し伝えていた教えの一つです。
ここでは、父親の教えが王貞治さんの人間性にどう影響したのかを見ていきます。
日本人社会との融和を重んじた仕福の教え
戦前、中国の貧しい農村から来日した仕福さんは、常に周囲の日本人社会との融和を図っていたそうです。
「他人に迷惑をかけられても、他人に迷惑をかけるな」「他人の喜ぶことは進んでやれ」と、折あるごとに子供たちに言い聞かせていたと伝えられています。
王貞治さんの身にも、その教えが知らぬ間にしみついていたようです。
異国で生きる父親だからこそ伝えられた教えだったのかもしれません。
与那嶺要からのサインがつないだ縁
貞治さんが5年生の頃、店で働く店員さんに連れられて、後楽園球場で初めてプロ野球(巨人対中日戦)を観戦しています。
このとき、巨人軍の与那嶺要選手にサインをもらったことが、貞治さんにとって特別な思い出になりました。
与那嶺選手は後年「何で日本の選手はサインをしてあげないのか、不思議に思いました。彼が王君だったかはわかりませんが、目の大きな子供が軟球を差し出していました」と振り返っています。
王貞治さんがプロになってからサインを断らないのは、この時の思いがあるからだと伝えられています。
756号セレモニーで見せた両親の素顔
1977年9月3日、巨人現役時代の貞治さんが756号本塁打を放った際、後楽園球場でセレモニーが開かれました。
父親・仕福さんと母親・登美さんが登場したこのセレモニーは、あらかじめ予定されていた段取りではなかったそうです。
2人の地味な普段着姿が、それを何よりも物語っていたといいます。
仕福さんは「そんな晴れがましいことは…」と一度は躊躇しながらも、巨人の関係者と顔を合わせると「いつも息子がお世話になっています」「悪いことがあったら叱ってやって下さい」と繰り返し頭を下げていたそうです。
謙虚さを貫いた両親の姿が残した影響
世界記録を打ち立てた息子の晴れの舞台でも、仕福さんと登美さんは最後まで謙虚な姿勢を崩さなかったことになります。
周囲に「ありがとうございます」と繰り返していたという2人の立ち居振る舞いは、王貞治さん自身の謙虚な人柄にも通じるものがあります。
派手な成功を手にしても驕らない王貞治さんの姿勢は、まさにこうした両親の教えと姿から育まれたといえそうです。
こうした両親の姿を間近で見てきたからこそ、王貞治さんは監督時代も選手一人ひとりに丁寧に向き合ってきたのかもしれません。
派手さよりも誠実さを重んじる姿勢は、異国で生きた父親の教えが確かに受け継がれている証だといえそうです。
父親から息子へと受け継がれた価値観が、長いプロ野球人生を支えてきたことがうかがえます。
父親の教えは、王貞治さんが引退した今もなお、多くの人に語り継がれています。
仕福が故郷に遺した秘密の事業の謎
仕福さんが故郷に遺したという「事業」とは、一体何だったのでしょうか。
ここでは、ノンフィクション作品でも取り上げられた、父親・仕福さんにまつわる知られざる謎を紹介します。
21世紀国際ノンフィクション大賞を受賞した一冊
王貞治さんと父親・仕福さんの関係を描いたノンフィクション作品に、鈴木洋史さんによる「百年目の帰郷ー王貞治と父・仕福」があります。
この作品は、21世紀国際ノンフィクション大賞を受賞した話題作です。
756本のホームラン世界記録を達成し、国民栄誉賞の第一号に輝いた王貞治さんのルーツを探るため、著者は仕福さんが生まれた中国大陸まで足を運んでいます。
二つの中国の間で翻弄されながら日本に生きた父子の姿を描いた、読み応えのある一冊だといえます。
果たせなかった仕福の夢と2度の帰郷
仕福さんは、登美さんとの間に鉄城さん、幸江さん、順子さん、貞治さんという4人の子供(広子さんを含めると5人)を育てました。
「2人の息子のうち一人を医者に、一人を電気技師にさせ、いずれ中国に連れて帰って故郷の村の建設に役立たせたい」という夢を抱いていたそうですが、この夢は果たされなかったと伝えられています。
代わりに、戦後になってから仕福さんは自分一人で何度か帰郷することになりました。
1977年の帰郷の際、仕福さんは小さいながらも自分の人生を総決算する意味を持つ、ある「事業」に着手していたそうです。
家族にも秘密にされたままの「事業」の正体
そして翌年、1978年の帰郷の際に、その「事業」は完成を見ることになります。
この「事業」の存在は、王貞治さんはもちろん、家族の誰に対しても秘密にされていたというのです。
仕福さんは、数年後にその秘密を一人で抱え込んだまま、この世を去りました。
著者は作品の中で「王仕福よ、なぜ、あなたはかくも意図的に故郷を家族から遠ざけたのか」と問いかけています。
故郷の記録を一切残さなかった仕福の真意
仕福さんは、故郷に住む親戚の住所を家族に残しませんでした。
どのように行けばいいのかも詳しく教えず、故郷の光景を写した写真も1枚も残っていなかったそうです。
死後に残った唯一の故郷の痕跡は、「中国浙江省青田県四都」という地名だけだったといいます。
著者はこの事業について、父から息子への「決して伝わらないはずの遺言」だったと表現しています。
756号という大記録の裏に、二代にわたる王家の歴史が隠されていると考えると、感慨深いものがあります。
一見地味に見える故郷での出来事が、実は息子の大記録と同じ重みを持っていたことになるのかもしれません。
仕福さんが生きた時代と場所を思えば、この秘密が今も解明されていないことにも納得がいきます。
この秘密の正体は今も明らかになっていませんが、気になる方はぜひ書籍を手に取ってみてください。
40年ぶりの里帰りで見せた父子の絆
1965年4月3日、仕福さんは約40年ぶりに故郷への里帰りを果たしました。
ここでは、この里帰りのエピソードを通じて、父子の絆を見ていきます。
息子への恩返しとして決意した里帰り
1965年(昭和40年)当時、仕福さんは64歳になっていました。
仕福さんは1922年(大正11年)に日本へ渡ってきており、この時点ですでに貞治さんは3年連続でホームラン王となっていました。
息子が日本中から愛される人気者となっていることへの「恩返し」として、仕福さんは戦時中に大陸で戦死した日本兵の霊を慰めようと思い立ったそうです。
そして、約40年ぶりとなる里帰りを決意したと伝えられています。
約50日間で巡った上海・青田・南京・広州
仕福さんの里帰りの計画は、上海、青田、南京、広州などを約50日間で回るという大がかりなものでした。
その間には、浙江省の温州府にある実家にも立ち寄り、両親の墓参りをする計画も含まれていたそうです。
約40年という時間を経て、ようやく実現した帰郷の旅だったことになります。
仕福さんにとって、この旅がどれほど感慨深いものだったかは想像に難くありません。
横浜港での見送りで交わされた親子の会話
仕福さんは午前10時、ノルウェーの貨物船「ヘリオス号」に乗り込んで横浜港を出港しました。
この日の夕方から後楽園球場で南海ホークスとのオープン戦を控えていた貞治さんも、見送りに駆けつけています。
貞治さんは「私は故郷を知らないので、ぜひ近いうちに里帰りしたい。国の人によろしく」と仕福さんと握手を交わしたそうです。
さらに「嫁でも探してきてもらうかな…」と冗談を飛ばし、真っ黒に日焼けした仕福さんの顔をほころばせていたといいます。
親子の心の距離を縮めた帰郷という選択
仕福さんが1922年に単身で日本に渡ってから、実に43年もの時間が流れていたことになります。
その間、仕福さんは家族のために懸命に働き続け、故郷に戻る時間を作ることすらできなかったはずです。
息子の活躍が、父親にようやく故郷へ戻るきっかけを与えたという巡り合わせは、親子の絆の深さを物語っています。
息子の大活躍と重なった里帰りのタイミング
仕福さんが里帰りを決意した1965年は、王貞治さんがすでに3年連続本塁打王のタイトルを獲得していた時期にあたります。
異国での苦労を重ねてきた仕福さんにとって、息子の活躍は何よりの誇りだったとみられます。
さらにこの帰郷から10年以上が経った1977年、仕福さんは2度目の帰郷で「秘密の事業」に着手することになります。
1965年の里帰りは、仕福さんにとって故郷との関係を見つめ直す最初の一歩だったと考えられそうです。
息子が打ち立てる記録が、父親の人生の歩みにも少しずつ影響を与えていたことがうかがえます。
この里帰りが、仕福さんにとって人生最大の恩返しだったことは間違いなさそうです。
父親の死後に王貞治が守る国籍の選択
結論として、王貞治さんは現在も中華民国籍を保持し続けています。
ここでは、父親・仕福さんの死後、王貞治さんがどのように国籍と向き合ってきたのかを整理します。
1985年、仕福が84歳で迎えた最期
父親・仕福さんは1985年(昭和60年)、享年84でこの世を去りました。
戦前の中国から単身で日本に渡り、中華料理店を興して家族を育て上げた仕福さんの人生が、ここで幕を閉じたことになります。
王貞治さんにとっては、巨人の監督に就任した翌年にあたる時期に、父親を亡くしたことになります。
前述の通り、貞治さんが巨人の監督に就任した1984年の翌年に、仕福さんは亡くなっています。
日本国籍でも中国籍でもない道を選んだ理由
世界のホームラン王として国際的に有名になったことで、日本国籍の取得(帰化)も、中華人民共和国籍の取得も、政治的な意味を帯びてしまうことが懸念されたといいます。
そのため、王貞治さんは父親の「中華民国籍」のまま国籍を維持する道を選んでいるそうです。
公開されている情報によれば、王貞治さんは中華民国のパスポートを所持しながらも、台湾に戸籍を持ったことがない数少ない著名人の一人とされています。
父親から受け継いだ国籍を、政治的な立場に左右されずに保ち続けている点が特徴的です。
父親が単身で日本に渡ってから100年近い歳月を経てもなお、その国籍の重みは変わっていないことになります。
政治的な立場に揺れることなく、一本の道を貫いてきた点は、仕福さんの生き方とも重なって見えます。
異国で生きた父親の姿勢が、息子の国籍観にもしっかりと息づいているといえそうです。
直近の誕生会で語られた台湾との深い縁
2026年11月02日現在、王貞治さんは86歳です。
2026年5月には、台北駐日経済文化代表処が誕生日を祝う夕食会を東京で開催しました。
50年来の友人でマネージャーを務める内藤氏は、王貞治さんが現在も日本国籍を取得せず中華民国籍を維持していることに触れ、「中華民国のパスポートで世界各国を訪れている姿には敬意を抱く」と語っています。
王貞治さん自身も「生きている限り台湾野球の発展に尽力し、台日の野球交流促進にも引き続き貢献したい」と話しているそうです。
父親の国籍を守り続ける姿勢そのものが、台湾との縁を今もつなぎ続けているといえそうです。
胃がんを乗り越えた現在の健康状態
王貞治さんは2006年7月、胃がんのため胃を全摘出する手術を受けています。
20年近く主治医を務める郭宗明医師によれば、本人の強い意志もあり、現在も健康状態は良好とされています。
王貞治さん自身も、現在でも毎日、机の近くで片足立ちのトレーニングを続けていると明かしています。
今後も王貞治さんが台日の野球交流にどう貢献していくのか、注目が集まります。
両親を見送った王貞治の家族史
父親・仕福さんが世を去ったあとも、王貞治さんをめぐる家族の歴史は続いていきます。
ここでは、その後の家族の歩みと、王貞治さんが打ち立てた大記録をあわせて振り返ります。
妻・恭子さんと兄・鉄城さんの死去
王貞治さんは、1985年に父親・仕福さんを亡くした後も、たびたび家族との別れを経験しています。
2001年(平成13年)には妻の恭子さんを享年57で、2008年頃には兄の鉄城さんを享年78で亡くしているそうです。
公私にわたって王貞治さんを支えてきた家族を、次々と見送ることになったわけです。
前述の通り、鉄城さんは10歳上の兄として、多忙な両親の代わりに貞治さんを育てた存在でもありました。
108歳まで生きた母・登美の大往生
母親・登美さんは2010年(平成22年)8月16日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。
享年108という、まさに大往生だったことになります。
王貞治さんは球団を通じて、「108歳の天寿を全うしてくれました。長い人生でさまざまなことがあったと思いますが、力強く生きてくれたことは、息子として誇りです」とコメントしています。
さらに「これからは父親(仕福さん)のそばで、まずは出会いを楽しんでほしいです」とも語り、母親への深い愛情をにじませていました。
下記の表で見る家族を見送った年表
ここまでの内容を、下記の表で時系列に整理してみます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1985年(昭和60) | 父親・仕福さんが享年84で死去 |
| 2001年(平成13) | 妻・恭子さんが享年57で死去 |
| 2008年頃 | 兄・鉄城さんが享年78で死去 |
| 2010年(平成22) | 母親・登美さんが享年108で死去 |
こうして振り返ると、王貞治さんが家族との別れを重ねながらも、現役・監督として長く活躍し続けてきたことがわかります。
両親が見守った数々の大記録
王貞治さんは、両親が存命だった現役時代から、数々のプロ野球記録を打ち立てています。
下記の表は、王貞治さんの主な実績をまとめたものです。
| 主な実績 | 内容 |
|---|---|
| 通算本塁打 | 868本(当時の世界記録) |
| 三冠王 | 2回(1973・1974年) |
| 本塁打王 | 15回 |
| 打点王 | 13回 |
| 首位打者 | 5回 |
| 国民栄誉賞 | 1977年に第1号として受賞 |
| WBC | 2006年第1回大会で初代優勝監督 |
1958年8月31日の親族会議で巨人軍入団を決定した際には、自宅で親族一同が出席するという珍しい発表になったそうです。
家族に見守られながらプロ入りを決めた貞治さんが、やがて世界記録を打ち立てる大打者へと成長していったことになります。
両親が築いた土台があったからこそ、王貞治さんはプロ野球界で揺るぎない記録を打ち立てられたともいえそうです。
家族の歴史を振り返ることは、王貞治さんという人物の魅力を知る上でも欠かせない作業といえます。
新しい情報があれば、この記事でも随時更新していきます。
王貞治の父親に関するまとめ
- 王貞治の父親は中国浙江省出身の王仕福という人物である
- 父親・仕福は20歳の頃に単身で日本へ渡ってきた人物だ
- 中華料理店「五十番」を居抜きで丸ごと買い取り創業している
- 1938年の新築移転後にこの場所で王貞治が誕生した
- 母親・登美は富山県出身で19歳の時に家の主となった
- 国際結婚への偏見で終戦後まで正式に結婚できなかった
- 関東大震災のあとには中国人への迫害も経験させられている
- 戦時中には収容所のような場所に入れられた時期もある
- 王貞治は仮死状態で生まれ双子の姉を生後1年で失った
- 仕福は故郷に秘密の事業を遺し家族にも明かさなかった
- 1965年には約40年ぶりの故郷への里帰りを果たした
- 父・仕福は1985年に享年84でこの世を去っている
- 王貞治は父が遺した中華民国籍を今も保持し続けている
- 母・登美は2010年に享年108という大往生を遂げた
- 仕福と登美は王貞治を含む2男3女の末子として育てた
▶️他の有名人の家族・嫁・夫・子供・親族が知りたい|カテゴリー・記事一覧

